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2006年6月28日 (水)

それから

今日、旧友と久しぶりに会い、いろいろと堤防で語らった。 彼とは三年前、俺がいろんなことに目覚め、ここからが青春なんだな、と感じた日々の、一年間をともに過ごした。 そういう時代に過ごした親友とは、半年ぐらい会わなくても、わかりあえ、過ぎ去った日々の匂いを感じることができる。 確かにあの頃は愚かで、全てに対して幼かった。ただ、そんなことは問題でなく、あの、どうしようもない日々を一緒に過ごした、ということが俺にとっての偉大な財産だ。 本当の親友を持っているか?大切な時間を共有した仲間がいるか?俺には、誰にも負けない友がいる。

俺たちは、流浪の民。社会から忌まわれ、世間から嫌われる禁忌の存在。 俺たちは、弱い。だから団結する。本当の契りを結ぶ。 ただ自由でいたいだけ。管理されたくないだけ。だから俺はもっともっと勉強をする。知識を欲する。この残酷な世を生き抜く武器として。妥協せずに生きるための糧として。 さあ、明日のための友を持て。飼い慣らされないために。打ち勝ってゆくために。

2006年6月25日 (日)

旅人

全ての人は、旅人だ その心はいつも旅する けれども心に従わず、旅に行かない人もいる 旅することをやめた人、それは生きていないよう 全ての人は旅をする 風に吹かれて歩いていく 全ての人は、孤独だ 肝心な旅はいつも独り

旅人よ 道なき道を越えてゆく 遠くの音色に誘われて

2006年6月14日 (水)

日本論

これは全く学問的なつもりでは書かない、自分のヨタ話である。個人的な感情と思想を吐露させていただく。

私は、統一されたものが嫌いだ。みんなはひとつ、というのが嫌いだ。「みんなちがって、みんないい」金子みすゞの考えに同感だ。 上からの愛国心には恐怖を感じるし、戦中のような皇民化政策を連想してしまう。 あの頃は、何でも「ひとつの日本」にした。日本人として、臣民としての強迫観念。それは、明治以来の中央集権国家の延長であると言える。西洋的な概念に影響された天皇を中心とした一神教世界。 しかし、歴史的には日本はひとつの国ではない。日本は一神教の国ではない。 関ヶ原。戦国史上最大にして最後の決戦が行われた場所。結果として東軍の家康が勝ち、西軍の三成が負けたが、そもそも関ヶ原の語源は、古代史上最大の戦争である壬申の乱の時に東西を分かつ最大の関所として機能したことだ。 このように、日本は歴史的に関ヶ原を中心として大雑把に東西に分けられる。実は、大昔から関ヶ原より東が照葉樹林文化、西がブナ樹林文化に属し、食文化をはじめとしてあらゆる点で異なっている。 東国の武家と西国の公家、西の朝廷と東の国人のように、万葉集の時代からハッキリと、西から見て東は異人であった。 東北に、縄文最大の遺跡である亀ヶ丘遺跡がある。何故東北のような寒い場所に大集落があったかというと、縄文時代は縄文海進といって温暖化の時代で、東北地方でほどよい暖かさだったと言われている。 そのため、縄文人は東国に多く分布した。縄文の基本は東だったのである。 反対に西には弥生人の遺跡が多く、奈良の巻向遺跡や佐賀の吉野ヶ里遺跡などが好例である。それは、気温の変化により日本海側や東北が寒くなり西日本がちょうどよい温暖になったため稲作に適したからだと思われる。 縄文と弥生の人種的な差異はまだ謎が多いので論考しないが、縄文は完全なネイティヴであり、弥生は渡来系が混じっているとみて間違いない。 弥生が縄文を駆逐したという見方も間違いでない。記紀には朝廷に従わない民をまつろわぬ民と呼んで征服する描写がなされ、縄文人の穴居生活様式から土クモとも呼んだ。 神話では彼らを国津神と呼び、天皇系の天津神により征服される。 縄文人の中には、山で狩猟採集する部族の他に海に生き海に死ぬ漁師の部族も多く、彼らは倭人と呼ばれた。中国の史書には倭人は列島の他に朝鮮半島南部や中国江南地方にもいたとされるが、彼らが海を本拠としていたと考えるなら、何の支障もない。彼らの子孫が海人(海士・海女)であろう。縄文の風習である入れ墨などを伝えている。海人の宗像氏など、宗像=胸形で、そのまま入れ墨を意味している。 縄文時代に原始的な稲作を伝えたのはおそらくこの海人だろう。東南アジアや沖縄にも足跡がある。 縄文人の信仰は、いわゆるアニミズムであり、自然崇拝、なかでも山や海など大きなものへの畏敬は相当のものであった。海はすなわちアマであり、転じて天となってゆく。日本神話の最高神の女神・天照大神の天であり、天照は海照である。対馬のアマテルという神が原型と言われ、蛇神としての側面をも持つため水の神である。 海神はワダツミと読み、綿=海の神であり、山神はヤマツミと言った。ツミという語は今では罪として罪悪の漢字が当てられ悪いイメージだが、古代は神を意味する語であったのだ。 山はわけても火山崇拝で、火の神を産んで死んだイザナミという大地母神が火山神と言われる。 しかし、日本の火山の総本家は富士だ。富士は昔、浅間山と呼ばれ、今でも富士浅間神社として名を残しているが、物理学者の寺田寅彦はアイヌ語でアサマは火山を意味し、日本にはこうした母音+S音の火山が多いという。浅間山、朝熊山、臼山、有珠山、恐山、雲仙岳、阿蘇山などなど、日本中に分布している。阿蘇などは、九州最大の山である。何故、九州にまでアイヌ語の跡があるのか。 遺伝学的には縄文人、アイヌ人、沖縄人はほとんど同じ人種らしい。そう考えれば、九州にアイヌ語の跡があってもおかしくはない。九州にいる縄文人だっていたのだから。 沖縄神話で沖縄の祖はアマミキヨという女神とされるし、奄美大島なんかは島名そのものにアマがついている。これらも暗示的だ。そう考えと、縄文人→アイヌ人・沖縄人ということになる。両者とも南北の端に位置するが、これは弥生人によって南北に駆逐されたことを意味するかもしれない。東北蝦夷はまつろわぬ民として朝廷の討伐を何度も受けるし、薩摩隼人や熊襲など九州南部のまつろわぬ民も何度も討伐を受けた。 以上のように、日本には明らかに違う二つの流れがある。縄文は文字を持たなかったが、弥生は持った。縄文は世界各地の狩猟民や流民と同じく口伝を重視し、言霊を駆使した。 しかし、弥生は大陸から漢字を輸入し、そこから仮名を生み出した。思うに、言語とは民族のアイデンティティの根幹であり、このように輸入された文字を使うことを日本人は終始コンプレックスとして抱きつづけ、平田篤胤など国学者はオカルティックな神代文字という漢字以前の文字があるという伝承を妄信することになるが、私から言わせれば篤胤らはそもそも発想が間違っている。縄文人たちは文字がないことを誇りとして、何にも縛られずに生きたのだ。

2006年6月13日 (火)

幸せの 粉

幸せの 粉を隠そう 毎日に


明日は地学がある。楽しみだ。地学の先生は、とにかく最高なのだ。 どうも、これだから生きるのをやめられない。日々に、生きるタネがあるのだ。

学校で日々見せられる原爆の映像に、憤りを感じている。日本中に爆弾の雨を降らした米軍のカーチス・ルメー将軍は、東京裁判で何の罪も問われず、戦後日本政府から勲章を授与された。日本軍の化学兵器研究班731部隊も罪を問われず、その研究はアメリカに大金で買われ、生き残りは平成の世に薬害エイズを引き起こすことになる製薬会社を建てた。 あの時代の悪は敗戦を生き延び、正義は潰される。 ベトナムに反戦したジョン・レノンはアメリカに殺された。

運良くも、八月十五日にデイトリップでライヴが出来そうだ。八月十五日、終戦記念日。俺が何をするつもりかは、内緒だ。六十年前のその日、日本は戦争に敗けた。 それは、今と何ら変わらない、ただ熱い夏の日であったのだ。夏の日であったのだ。

2006年6月12日 (月)

昨日のスタ

昨日のスタジオは、めちゃめちゃ楽しかった。もうみんなかなり完成してる。 凄くのほほんとしてるけど、なんか上手くいきそうだ、このバンド。打ち上げが楽しみだ。 今週日曜昼が本番で、チケットは500円で売るから行きたい人は是非言ってください。素敵な休日になることを、約束します。

夕方は、母親と元ちとせのコンサートへ。人を感動させる音楽の、心を揺さぶる声の、真の凄みが伝わってきた。 バンマスとベースとバイオリンとパーカッションはいつものメンバーみたいだった。思ったよりかなり盛り上がって、『散歩のススメ』では、恒例の総立ちへ。 確実に成長してる。バンドメンバーが楽しげなのも微笑ましかった。

2006年6月 8日 (木)

昨日、我が

昨日、我が相棒と堤防で、アコギをピアノ代わりにコーラスの練習をした。 全てが印象的だった。

その後、俺の家で遅くまで話し合った。進路の話題となったが、俺は、最近考えるようになったあることを述べた。 それは、何かの職業につく、ということは社会のパーツとなり、錆びて壊れるまで社会という工場の歯車として動き続ける存在になる、と語った。 マルクスは賃金目的で働くことを、疎外された労働、と呼んで軽蔑した。そして、マルクスはアダム=スミスの唱えた職業分業論…つまり、AはBの職業のみで生き、CはDの職業のみで生きる、というようにる社会全体で職業を分担し合う現在の状況…を廃止せよと語り、人が農業も漁業も工場も作家も学者も、何でもこなすのが理想とした。職業を分担せず、それぞれが好きなこと、要ることを要る分だけやる。分担は効率化が確かにはかられるが、効率化ばかり目指して、こんな汚い地球になったのではないか。 俺はそう言い、俺は職業分業に加担せず、いろいろなことを経験したいから、世界をゆっくり回ることにするよ、と語った。俺はパーツになりたくない。トランプのジョーカーのように、システムからはみ出た人間だって、必要なのだ。 「哲学者たちは世界をさまざまに解釈しただけである。肝心なことは、それを変えることだ。」―カール・マルクス

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