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2006年9月28日 (木)

仏教と旅

仏教と旅。果たしてこれから何を連想されるのだろうか。西行法師か、松尾芭蕉か。

まず、仏教のテーマそのものが旅だ。悟りへ至るための修練、それは精神世界の旅である。
仏教の無常感も旅そのものに思える。全てのものは移り変わる旅人なり。この世を仮の宿りとする考えは、過去現在未来の壮大なる魂の旅である。
旅の思想。俺はそれを、『風の思想』として以前発表したことがある。
風の思想はいろいろなものからそれわ汲みとることができる。宗教、民族、文学、音楽、美術…
俺はそれらありとあらゆるものから風の思想を発見・分析することをライフワークとしている。
さて仏教の話へ戻ろう。仏教が権力に吸収されてからというもの、奈良仏教は口だけで実力のない仏教へと腐敗していった。
そんな折りに、そのような風潮に対抗するように現れたのが修験道だ。山伏たちはそのものが旅する行者であり、日本各地の山々を駆け回った。
山は日本人にとって異界であったため、山伏たちは権力に同調することなく歴史が続いたが、徳川幕府に「旅すること」を禁じられ(権力は自分が築きあげたネットワークを旅人によってひっかき回されるのを嫌うのだ)衰弱し、明治新政府によって修験道禁止令を出され完全に壊滅した。
こうして見ると、旅というものは反体制・反権力側の存在だ。古代、農民たちは納税を逃れて放浪した者も多かったように、旅というものは権力にとって邪魔で仕方なかったのだ。
だから権力者は関所を作って旅人をコントロールしたのだ。
さて、では日本の主だった旅人とはどういう人たちなのだろうか。思いつくだけ羅列してみる。
①密教僧・山伏・巫女など宗教者
②傀儡師・歌舞伎・猿楽・能楽・歌人など芸能者
③猟師・木地師・杣人・サンカ・マタギなど山民
④漁師・海士など海洋民
⑤忍者・物部氏や南朝などの史上の敗者ら政治的集団
この五つに分類できる。そして、実はこの五つは一つであり、ある一柱の神の化現だと言えるのだが、それはまたの機会とする。

2006年9月26日 (火)

詩について

最近、詩に凝っている。
古書店では文庫の詩集を見つけては買っている。
中原中也、三好達治、谷川俊太郎、宮沢賢治、島崎藤村、ランボー、ボードレール、ヴェルレーヌ、ロルカ、ネルーダ…あげつらうとキリがない。
そのうち、自分だけの選詩集を編んでみようと思っている。

詩ほど手軽な芸術はない。ゴッホの真作を所有することはできないし、オーケストラを持ち歩くことはできないし、一冊の小説を暗記することも不可能に近い。
しかし詩は、その気になればいつでも暗唱でき、頭の中に携帯でかる。すなわち、自分のものにできる。
そういう意味で、詩は俺たちの味方である。

好きな詩人はいるか?
好きな詩篇はあるか?
彼らはあなたを待っている。

2006年9月25日 (月)

さあさあさあさあ

冒険に出発しよう。

確かにこの世界は開拓し尽くされた。google earthは地球上をくまなく調べられるし、何処の国や島に何民族がいて何語を話して何を食べて何が名物で…なんてことはそこにあるパソコンですぐに調べられる。

でも、そういうことじゃない。感性は、画面に出ない。
地図にない街へ行こう。

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