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2006年12月26日 (火)

悔しさ

もしぼくが詩人だったら
あなたを慰めるに一番いい言葉を
見つけられるのに

2006年12月22日 (金)

寂しさ

歩け、歩け
そしてたまには振り返れ

進め、進め
そしていつかは帰って来い

この世界は はてしなく続く砂漠
旅人は歩む 心にふるさとを抱えて

2006年12月20日 (水)

未知へ

非常に内輪な間で読書がブームとなっている。
そもそもこれは俺の唐突なカキコによる偶然なのだが、それまた必然であったとも言える。
というのも、読書欲、しかも娯楽としてでなく真摯な態度での読書欲というのは、未知なるものへの関心から来ているのだ。
こういう経験がないだろうか。偶然な一冊の本との出会いから、考え方が一変した、というような。まさに未知との出会いである。
読書というものは、特に未知への入口になりやすい。音楽や絵画なんかよりずっとわかりやすく、情報量も豊富で。映画しかかなわないだろう。
そう、言い換えればこのブームに参加している人間は、心の底では未知なるものへのドアをノックしようとしているのだ。
未知なるものの存在を知ってしまった者は、ほとんどがそうなる。もちろん、知らずに生きる人の方がずっとか多いのだが。
ああ、どうかみんな、ドアの向こうに広がる荒野の中から本当のものを見つけてくれ。背中を押してあげるぐらいしか助けられない。
進め、夜通し歩め。


「ノックしろ、ノックするんだ、天国のドアを」 by Bob Dylan

2006年12月19日 (火)

新世界

とりあえず、俺はここらへんでこの数年間のピリオドを打つ。日本古代史についてである。
残念ながら、建国の謎は解けなかった。最後の一押しができなかった。
しかし、縄文を日本のインディアンと位置づけ、その後の歴史にも影響を及ぼすという構図の追究は、一応の完成をみた。
ここで、次なる野望が生まれた。今度のテーマは回帰、ゲット・バックだ。キーワードはカウンターカルチャーである。
西洋科学主義から以外の視点を持つこと。そのためにカウンターカルチャーを学ぶのだ。
西洋文明に対しての東洋文明。儒教に対しての道教。キリスト教に対しての仏教。白人に対してのインディアン、黒人。
そうすることで、我々が帰るべきホームを見つける。それが回帰だ。
一応諸宗教についての予備知識はあるが、いぜんオカルト的好奇心レベルの話である。
カウンターカルチャーが台頭したのはご存知60年代である。ビートルズやジミ・ヘンドリックスがインドや東洋に惹かれたのもつとに有名である。
ジョン・レノンの『トゥモロー・ネヴァー・ノウズ』がティモシー・リアリーの『サイケデリック・エクスペリエンス』というトリップ本に触発され、チベット密教をイメージして作ったことや、ジョージ・ハリスンの『ジ・インナー・ライト』は『老子』を引用していることなど、そういった動きに触発されたヒッピーたちが禅やタオやヨガに憧れた。そのため六十年代は人間性回復運動が始まった時期とされる。つまりテーマである回帰運動だ。
しかし何度も述べているようにこの六十年代の夢は頓挫した。だが、七十年代以降ニューエイジやインディアンへの関心の高まりは持続し続け、今こうして俺たちの前に横たわっている。
だがしかし、探究すると言ったって今までのように文献をあさるだけではいけない。今度のテーマは回帰なのだ。
五感で味わい、心で感じなければならない。そして、そのためにも文献は難し過ぎない方が良く、自分の足で各地を歩くことも必要だ。
誰か興味のある人はいないか。毎日が物足りない人、社会に疑問を持つ人、自分の存在に興味がある人…ああ、まだかすかに己の血の中にいにしえのインディアンの魂が宿っていると思うなら、異教徒が踊っているなら、君はこのマジカル・ミステリー・ツアーに参加するべきだ。
目覚めなければならない、虹の戦士として。帰ろう、あるべきところへ。

2006年12月18日 (月)

列島思想論

『古代は輝いていた・日本のインディアン』

隼人、倭人たちの海の民に対し、山の民もいた。
もともと二つの民は一つであった。漁師たちは山を目印に航海したし、記紀にも山幸彦と海幸彦の説話がある。
山の民は、もちろん山を信仰した。日本最古の神社とされる三輪山、神話の山・高千穂、霊峰・富士…とにかく山だらけの日本列島である。列島そのものを信仰していたと言っても過言ではない。
特に、富士は最大規模の信仰を集めていただろうことが予想される。しかし、記紀には富士について一切記されていない。縄文の歴史が消されたと見るべきだろう。
三輪山も付近に都ができて巧く取り込まれ、山に住む者は鬼の扱いだった。
しかし、これら権力の横暴に対し、山に入ることで反抗の意を表そうとする集団が現れた。山伏だ。
彼らは、権力によって腐敗した神道・仏教を解体し、原始的な信仰に回帰しようとした。
その最大の本拠地は三輪山の西に位置する葛城山であった。そしてそこは、歴史の敗者たちの巣窟となった。
雄略天皇によって流された神・一言主神、謀反人として島流しに遇った役小角、皇位をうかがったとされる弓削道鏡、大化の改新で一族を滅ぼされた蘇我馬子、無実の罪で処刑された大津皇子、北朝と戦い続け、後世の天皇制から忠臣とされた楠木正成…縄文のスピリットが生き続けた山といえるだろう。他には森林豊かな熊野や東北、縄文の直接的な子孫であるアイヌの北海道や沖縄などがスピリットを受け継ぐ地である。
このように権力に抵抗するときでさえ縄文は海に山に、自然と共生する人々だった。現代の俺たちがとうに忘れてしまっている、自然と生きるという思想。
縄文が一万年も続いたというのはよくわかる。これほど健康的で、美しい生き方もない。インディアンのようだ。
だが、この美しい列島に、大陸から先進的な人々がやってきた。彼らは自分たちと自然を区別し、集落の周りに塀を作った。集落は他の集落を攻撃して大きくなり、国となってゆく…争いという悪魔まで持ち込まれたのだ。
こうして、縄文と列島の蜜月は終わり、相変わらず自然を区別し利用し破壊するということを弥生時代延々と、俺たちは繰り返している。
何かを失ってしまった。この二千年のあいだ、本当に大切な何かを、捨て去ってしまっていた。
このままでいいのだろうか?このままでいいのだろうか?
俺たちは学ばなければならない。忘れてしまったことを思い出すために。

2006年12月16日 (土)

休憩

日記らしい日記を書かなくなって、どれほどたったのだろう。
俺は、多分もうそうした日記は書かない。誰も俺の私生活に興味なんてなく、俺もお前の私生活には興味がない。
俺は、もう遅いかもしれないが、このブログを一つの習作にしてしまおうと思う。だから読んで何かインスピレーションを得られるように、文章を書き続ける。
これを読む人は相当物好きな人だろう。だが俺はお前が好きだ。きっとみんな好きだ。
さあ、意識的な生き方をしよう。本当の意味で自分の目を持つこと。周りを疑うこと。
俺たちはひとつ、協力していこう。
武器をとれ。銃よギターになれ、弾丸よ花びらとなれ。

列島思想論

『古代は輝いていた・海の民』

記紀などの歴史書には、土グモや蝦夷、国巣や熊襲や隼人などと言った天皇族である天津神に対しての国津神という存在が描かれる。天津神に侵略・同化を受ける先住民の姿である。
土グモという表現は、まさに竪穴式住居に住む縄文人そのものである。
このように、弥生時代となっても縄文は抵抗を続けた。彼らは次第に鬼と呼ばれるようになる。同化を避け山に住む彼らの蔑称である。
海に生きた縄文人たちもいる。彼らは海人と呼ばれた。アマ。男は海士と書き女は海女と書く。
そして海人系と思われる代表が熊襲=隼人である。南九州に住む部族で、熊本・大隅のクマである。
彼らは朝廷にたびたび反抗するのだが、実は天皇の出自はこの部族である。初代天皇の神武は海神の娘の子であるし、皇祖のひとり山幸彦の弟は隼人の祖である。
そもそも天はアマであり海である。もともと日本には天の概念はない。中国製である。
しかし、隼人生まれの天皇が隼人を攻撃するとは解せぬ話だ。きっと、今日の象徴天皇のように実権はなく、あくまで祭祀長であって政治は他者がやっていたのだろう。
海と山。縄文のキーワードであり、島国日本の命でもある。
海の民は刺青の習俗が有名で、九州の宗像氏などはムナカタ=胸形、すなわち刺青のことであるし、建国の功臣とされる久米氏なども刺青で有名だ。
魏志倭人伝にも邪馬台国の風俗として刺青を紹介している。史書は倭人が山東や新羅にもいたと書き、倭と日本は違うとさえ言う。
どうやら、倭人とは海の民のことらしい。そう考えると、九州にも新羅にも山東にもいたことがうなづける。海の民にとっては海が母国であり、陸地は休憩地点でしかないのだろう。

2006年12月15日 (金)

列島思想論

『古代は輝いていた・東西』

縄文文化は東日本を本拠として全国全てに広がっていた。最大の遺跡は青森の三内丸山遺跡である。対する弥生文化は西日本が主流であった。
弥生文化の発生源はもちろん水田稲作の伝来である。弥生稲作は九州に伝わってからまたたく間に東漸を始め、非常に短期間の間に東国まで広まった。それから名古屋あたりでしばらくストップしていたようだ。
このようにスピードがあったのは、縄文人自体が弥生文化を簡単に受け入れたに違いない。日本人は新しいもの好きと言われるが、単純に言えばそのように縄文人が抵抗なく弥生文化を受け入れたと見るべきである。でなければ、このスピードはありえない。
しかし、名古屋あたりでストップしたということは、縄文の本拠は抵抗した、ということになる。中部に関東・富士、東北など、縄文の牙城はまだ生きていた。
しかし、最終的には稲作はあまねく伝わることになる。こうして縄文時代は幕を降ろす。なんと、一万年以上も続いた時代であった。
しかし、縄文の抵抗はずっと続いた。続縄文時代とも言われる時代が存続したし、たびたび弥生に同化への抵抗を示した。
次に、それら縄文の抵抗について記す。

列島思想論

その1『古代は輝いていた・土器』

我が思想の根幹は我が史観にある、と述べた。そして、その史観を決定するのが古代(縄文〜)と近代(幕末〜戦後)の二つの時代が主である。ではまず古代から述べる。
この列島に先住民たちがやってきたその瞬間、列島の歴史は始まった。縄文時代である。
縄文人を先住民と呼ぶのは正しい。ネイティヴ・アメリカンのような感覚であり、先住民と呼ぶということは後からやって来た人々がいたということだ。それが弥生人(正確には弥生人を構成した渡来人と言うべきか)である。
縄文と弥生。土器を眺めれば一目瞭然であるが、まったく異種の文化である。まず文化的に断絶が見られるのである。
情熱的で荒々しく、原始的な美しさに満ちた縄文土器と、質素で利便性の高い弥生土器。これを進化というか退化というか。確かに、合理性は向上している。だが、我々の破綻しかけている文明は、この西洋的な合理主義が行き着いた先なのだ。それを考えると、俺にはどうしても進化に思えない。合理性よりも、呪術的で感情の底に訴えるような、岡本太郎も愛したという火焔土器などの縄文の美しさの方に惹かれる。
しかし、この派手で熱っぽい縄文土器のような文化は、後世日本文化の主流にならなかった。
日本文化の主流となったのは弥生土器的な質素の極みである「わび・さび」や「もののあはれ」という芸術である。縄文文化がまだ息づいているのは、詳細は後述するが、東北や熊野など僅かだ。
まず、文化的にまったく異種の日本文化があったのだ。

2006年12月14日 (木)

思想

俺は常々、風の民―ジプシー、サンカ、ケンシ、山人など放浪生活者を俺はそう呼ぶ―を話題に出してきた。従来の定住型文明以外に期待を寄せてきた。そして今も風の民についての興味は尽きることがない。
しかし、俺は日本人である。彼らを調べれば調べるほど、その当たり前の事実が顔を出す。
俺は日本人であることを恥じていない。誇りですらある。この場合、日本人というのは日本民族や日本国民という意味でなく、日本列島の民を指している。
この列島の歴史、文化、それらは俺の心の最深部に息づいていることだろう。だから俺はそれらへ向かうのだ。
少なくとも、この列島に生まれた人間として、列島の先人たちの行ったことは記憶して次代へと受けつぐべきだろう。
俺の思想の根幹はきっとここいらにある。まず全てのベースが列島の歴史なのだ。自分なりの史観の上で論を立てていく。
では、次にその史観の概観を述べていく。

2006年12月11日 (月)

大和紀行

大和紀行

大和紀行

大和紀行

大和紀行

大和紀行

奈良に行ってきた。
もともと俺は、奈良に興味があった。日本文化を探究するには避けては通れない道である。
そもそも、奈良は京都より、抱えているものの重みが違う。
奈良の古名は大和だが、ヤマトといえば大和朝廷、邪馬台国、倭、ヤマトタケル、戦艦大和等々、それは日本そのものをシンボルとした言葉だ。
奈良には何があったのか。大和の底には何があるのか。そういう好奇心が奈良まで引き寄せたのだ。
しかし、これは旅である。しかも一人ではない。哲学などするより、まずは目の前の光景を楽しむ…そう考えてやって来た。
これは、そんな一日しかない旅の記述である。
朝。五時に起きる。起きれないと悲しいので、携帯のアラームをこまめに設定しておいた。
もちろん家族に出かけることは言ってあるが、やはり真っ暗な闇の中、家で一人うごめくというのはドキドキしていい。時間があったので30分ギターを弾いてから、出発した。
空の色は東の方がぼんやり赤く、ディープブルーからブルー、ブルーからオレンジというグラデーションが朝を感じさせた。
そして集合し、近鉄へ。車内から見える朝日が、気分を高揚させた。
最初に向かった先は奈良公園である。東大寺と春日大社の定番コースだ。
春日大社は京都風な印象を受けた。奈良のイメージではない。貴族的な趣味というか。それもその筈、この神社は藤原氏の氏神であるのだ。
東大寺はやはり大きい。巨大なものは有無を言わさず人に息を飲ませる力がある。大仏殿の中では京都天竜寺の巨大な龍の天井画を思い出した。巨大なものは心を直接グラグラと揺らす。原始的な感情である。
昼食後、桜井へ。桜井からバスで三輪山へ。大鳥居は凄い。中村公園前とはレベルが違う。
三輪…この旅で一番楽しみにしていた地である。昔、三輪は神と書いた。日本原初の神、それはやはり山という巨大なものに鎮座した。
日本最初の首都とも言える。巻向は弥生最大の遺跡の巻向遺跡がある。古墳の数は相当なものだ。三輪山を信仰の中心に据えた、宗教都市…そんなイメージが浮かぶ。
一行は山の辺の道へ。細い道だ。文字通り完全な山の辺で、三輪山と平地の境のようなところを歩き続けた。
次第に山道に転じ、高度が増して行く。そして最高度と思われる桧原神社に到達した。この神社の鳥居は、写真のような原始的なもので、縄が蛇のようにくねって棒に絡み付いているといった感だ。
神秘的な、縄文時代に戻ったような気分になった。
その後、そのまま神社前広場に向かった。そこからは奈良盆地全体が見渡せる、穴場だった。そこから見える景色は例えようもなく雄大で、夕焼けで茜色に染まりゆく空が、心に深く刻まれた。
正面には二つの岳からなる二上山が見えた。赤みがかった二上山には透き通ってゆくような美しさがあった。いつか必ずそこへ行くだろう、と強く思った。
俺たちは見ていた。とてつもなく大切な時間を共有している、という意識が全員に流れていた。俺はこの時間を一生忘れないだろう。俺たちの中では永遠に等しい一瞬であった。
俺は、きっとまたここに来るだろう。この奈良の地に魅せられたからには、何度か訪れるだろう。
しかし、きっとこの時の光景が一番印象的だ。大仏よりも遥かに大きい、この光景を。
旅のラストを飾るにふさわしい瞬間であった。やっと僕らはこの景色を後にし、帰路についた。
ここまでが、俺の旅の概要である。結論として、奈良のミステリアスな魅力を感じることができた。こんなに古代を肌で感じたのは初めてである。
しかし、今回旅したのは大和の光の部分である。朝日射す三輪山、華やかなりし都。だが、大和には闇がある。夕日落つ二上山、歴史の敗者の地・葛城。
次は葛城を回ろうと思う。明るい旅とはほど遠いだろうから、きっと一人か違う人らと行くだろう。

2006年12月10日 (日)

李白

烏の鳴く夜に/烏夜啼

夕雲がたなびく街に
烏が鳴いている
錦を織る西の女
緑のカーテンは煙のように、彼女は窓越しに何をか語る
織る手をとめては溜め息をつき、遠く離れた愛しき人を思う
今日も誰もいない部屋にひとり寝て、むせび泣く
ああ、その涙は雨のよう


月夜の待ち人/子夜呉歌

長安の夜に澄みきった月がひとつ
街中を覆うは衣替えの季節
秋風ははるかな思いを運ぶ
西の彼方の玉門関
いつの日か戦争が終わって
愛する人が帰らんことを


上の詩は、二首とも李白の詩を俺が訳したものである。
漢詩は堅いイメージがあるが、このように漢文を抜き取ってしまえば、こんなにも現代風の洒落た感じになるのだ。
正直、漢詩の世界は近寄りがたいと言って遠ざけるにはもったいないほど美しい詩が多い。
俺自身、漢籍は幼少から親しむが漢詩は全然、という人間だが。

2006年12月 8日 (金)

アウトロ

2006年、冬。徐々に今年が終わろうとしている。
ひとつの時間が終わるとき、ひとつの感情が終わる。興奮は静まり、熱狂は冷却する。
それは寂しいことだが、僕らは確かに時代を生きた、そのことを決して忘れない。

この一週間ほどの日々はこの一年を端的に表しているので、端的に記す。

パソコンの前にいたら、谷井から電話がかかってきた。三ヶ月ぶりほどだ。
内容はくだらない話だったが、そこから真剣な話に発展した。彼はそういう男である。
思えば俺たちは不思議な関係である。特につるむわけでもなく、戯れるわけでもない。しかしお互いを理解し合っている。二年間。
理想的な人間関係のひとつのモデルのような。
電話が終わり、再びジミ・ヘンドリックスを聴いた。

とあるテスト後、平山がやって来た。『木を植えた男』という絵本を貸しに、だ。
その後いくつかの相談を受けた。非常に真剣に応じたら、口が乾いた。
さまざまなことを論じ合った。彼女は頭がいい。感受性の鋭さは相当なものだ。
俺は言った、考え考えしながら生きろと。それは自分への戒めでもあった。

俺がブログに人の固有名詞を載せたのは、それなりに考えてのことだ。無意味ではない。

2006年12月 5日 (火)

ヘンドリックス論:南と回帰

「おれは南へ行くぜ、南へずっとな。南へ下ってメキシコまでさ。南へ行くぜ、自由になれるところまで」(『ヘイ・ジョー』)

「ずっと遠くにあるんだ そこに行くのに半日はかかる」(『スパニッシュ・キャッスル・マジック』)

「悪いけど もう行かなきゃ」(『エイント・ノー・テリング』)

ジミには何かが見えていた。ハッキリと、何処かを意識していた。それは、これらの歌詞からうかがえる。
とりわけ、『ヘイ・ジョー』(彼が作曲したわけじゃないけれども)の南へ行って自由になる、という一文は深い意味を持つ。
ジミの最高傑作とされるアルバム『エレクトリック・レディランド』の中で、最も重要なのは『ヴードゥー・チャイル』とされる。ヴードゥー教、それはアメリカ南部で現在も信仰される呪術宗教である。ここからも、ジミの南部志向がうかがい知れる。
そもそも、ブルースは南部が発祥なのである。ミシシッピ、ニューオリンズ…伝統はシカゴ、ニューヨークへ受け継がれ、エルヴィスを経てイギリスへ飛ぶ。そうしてビートルズやストーンズがアメリカへ逆輸入し、ジミはイギリスでデビューしてアメリカに凱旋する。
この伝統の道を遡ることを考えた人も中にはいる。例えば映画『イージー・ライダー』ではヒッピーの聖地カリフォルニアからニューオリンズまでの旅が描かれ、ストーンズは一連の傑作アルバム(『ベガーズ・バンケット』、『レット・イット・ブリード』、『スティッキー・フィンガーズ』、『メインストリートのならず者』)では順に南部へと遡っていっている。
南へ向かうということは、回帰するということである。本源回帰。
そう、ジミ・ヘンドリックスは回帰を一身に体現した男なのだ。だからこそ、古代や原始を感じるのである。
南とは、そもそも人類発祥のアフリカでもある。こうした無意識もドロドロと絡み、南への羨望を助けたのだろう。
フランスの早熟の天才詩人アルチュール・ランボーは若くして詩を捨てて南下してアフリカのキャラバンに加わった。ゴーギャンは西洋社会に絶望してタヒチへ向かった。
そうしてランボーはアビシニアで片足をなくし、ゴーギャンは自殺を図った。南は単なるユートピアではない。歴史の敗者である。
この頃のロックスターの東洋志向も、南への回帰と同じであろう。西洋・北:東洋・南。ジミは東洋風のキモノを衣装として好んだそうだが、こんなところにも現れている。
南へ、南へ。われわれは南から来た。ドロドロとした無意識が沸騰している。ゴーギャンの大作「われわれはどこから来たのか われわれは何者か われわれはどこへ行くのか」を思い出す。
われわれは南から来た。われわれは南へ行く。ジミ・ヘンドリックスにはこのような無意識が流れていたのだ。アフリカから来た黒人、南洋から来たインディアン。南から来たブルース。
しかし、誰も彼を助けられなかった。ついに南へ一歩も足を踏み入れることなく息絶える。享年27歳。生前は日本へ行きたがったそうだが、その夢もついえたのだった。

2006年12月 4日 (月)

ヘンドリックス論:古代とジプシー

彼は何処へ行ったのだろう?何を目指したのだろう?
僕らを置いて先に行ってしまった彼、その彼が見ていたものは何だったのか。

「そこの女もここの女も俺をプラスティックの鳥カゴで飼おうとする。みんな気づいてないんだ、壊すなんてへでもないってことに」(『ストーン・フリー』)

「通りで見かけるホワイトカラー風の保守的な人間が突然現れ、プラスティックの指で俺を指す。俺みたいなのはさっさと落ちこぼれて死ねばいいと思っていやがる。でも俺は気ちがいの旗を高々と揚げて、振って振って、振り続けた」(『イフ・シックス・ワズ・ナイン』)

ジミは常に圧迫や束縛を感じていたようだ。それらについて、どちらもプラスティックという非人間的な比喩で表現している。
ジミは、孤独だった。黒人・白人・インディアンの血が流れる異端児。白人のビジネスに利用され、黒人たちからも非難された男。スターになっても売り上げはほとんどマフィアに吸いとられ、麻薬浸けにされて常に一文無しだった。そう、ジミはカゴの中の鳥同然だった。時代のマイノリティ、ジプシーだった。
しかし、『ストーン・フリー』は完全な自由を歌う。『イフ・シックス・ワズ・ナイン』は無国籍者、ジプシーを讃歌する。どんなに圧迫されても、いつだって、簡単に、逃げ出すことが出来る。そしてそれは正しいことだ、と教えてくれる。
ジプシー。ジミ・ヘンドリックスは放浪者でもあると言える。イギリスでデビューし、アメリカに凱旋する…人気になればなるほど、マフィアによる脅しが強くなる。そうして感じる疎外感。同志である黒人から非難されて生まれる無国籍的心情。事実、彼はジプシーという言葉が好きだったようで、曲名やバンド名に用いている。
こうして見ると、彼はロックスターというだけでなく、神話における文化英雄、すなわちトリックスターの要素をも持っていることが見えてくる。
例えば、ヤマトタケルは戦争で活躍して民衆の英雄となった。しかし、父親から忌み嫌われて各地を放浪し、その途上に若くして死んだ。
まさにジミとほとんど変わらない。ジミ・ヘンドリックスはこうした神話的・古代的な英雄の性質をも持ち合わせている。
現代の中の古代、原初の英雄。俺たちがジミから受けるイメージは、まさにこの原始的な何か、一番始めの何かなのだ。
彼は何処へ向かったのか。それを解く鍵は、そんなところにあるのではないか。

2006年12月 2日 (土)

ブルース

とにかく言えば、俺はブルースが好きなのだ。何を聴いてもいつかはブルースに帰るのだ。
俺は、十代において最も幸福なことの一つに、ブルースとの出会いを挙げることができる。
そもそも発端は、三年前の夏にとにかく60sのロックを聴こうとしていた頃である。ビートルズやサイモン&ガーファンクルはわかりやすかったが、ストーンズ、ジミ、ジャニス、クリーム、ツェッペリン…これらは、全くわからなかった。ブルースが強すぎたのだ。
しかし、ステレオやプレーヤーで垂れ流し続けているといつしか耳に残っていった。どうやらそのときにブルースの亡霊に憑かれたようなのだ。
ブルースの魅力、それはやはりブルー、哀感である。気だるさやうめきからそれを表現することもあるが、やはりブルース自体から滲み出ている。
そう、無理矢理訳すなら哀感が一番近い。そういう意味では、ブルースはあらゆる民族が持っているとも言える。日本には日本のブルースがある。

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