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2007年2月25日 (日)

anyway

動けば変わる。

女性及び高校生

前もって断っておくが、僕は女性差別論者でも女性解放論者でも何でもない。そして、以下に書くことについては僕の身近な人々がモチーフであり、統計的な根拠や科学的な根拠もないので一般化はできない。あくまで名古屋の一高校生のストーリーである。

人間の評価基準というのはいろいろあると思う。カッコいい、かわいい、綺麗、アタマがいい、スポーツ万能、ファッションセンスがある、ムードメーカーである等々。いずれも大切な評価ではある。
しかし僕が、評価されて一番うれしく、かつ僕が人を評価する基準というものに、おもしろさがある。このおもしろさとはいわゆる笑いをとれるとか遊びに詳しいとかそういった類のものではない。彼といると楽しい、面白い、興味深い、ためになる。彼には一目置いている。そういった魅力だ。他と違う強烈な個性の持ち主、人間性豊かな持ち主、そういった人々にこそ与えられるべき称号だ。
そうした独特な人々は、もちろん周囲に流されることはない。我が道を行ってこそ、独特が独特たりえるのだ。
そうして自分の周りを見てみると、そういった個性の連中は男性ばかりで、女性はほとんどいない。もちろん男に友達が多いだとかそういうことも影響すると思うが、それにしても比率が有り得ない。おもしろい女性が少なすぎる。
はたして女性とは集団行動という一風変わった習慣を持っている。もちろん集団行動は大事なのであるが、一人で小便すらできないのであるから尋常ではない。
男は基本的に孤立をあまりいとわない。むしろ少数や孤立を好む。だからこそ流されない個性が生まれる。しかし女は固まる。似たような個性に似たような趣味の似たような集団である。区別する必要がないので個々の名前なんていらないように思える。個々の主体性がないのである。女においておもしろい人間が少ないのはこういった理由からではないだろうか。
しかし、近頃は男でも女のように集団的になり、主体性を失う連中が増えた。男性の女性化である。集団的な男は集団的な女に気に入られようと躍起になる。その逆もまた真だ。
話していて退屈な存在ばかりだ。話の低俗さ、世界観の狭さ。本気で夢を語る奴も世間の矛盾を告発する奴もいない。
昭和30年代と現代の高校の図書館の主な貸し出し本の変遷も、聞いたら笑ってしまった。簡単に言えばドストエフスキーからラノベへ、である。いったいこの半世紀のあいだに何があったのか。高校生はどうなってしまったのか。
といっても、別に僕は啓蒙思想家でも何でもないから、高校生がどうなろうと知ったこっちゃない。ただ、友達が腐敗していくのを防げればいい。自分の腐敗を防げればいい。

2007年2月24日 (土)

風景

俺はいつも、ある一つのヴィジョンを胸に秘めている。
アメリカのデザート地帯のような、地平線が望める砂漠のような荒野のようなところで、まだうす暗い時に真っ赤な太陽が出てきている、そのメラメラとした映像である。静止画ではない。
そして、展開してイメージされるのが、ギラギラとした太陽の昼間、原始的な生活感、ヒートした夏の熱気、多神教的でシャーマニスティックな神々の影、性、祭り、はかなさ、遠さ…

こんな映像をよく浮かべる。Jimi Hendrixの曲にはいつもこれを感じさせられる。ふるさと?前世?血の記憶?何なのだろう、この光景は。
アフリカ、アジア、アメリカ…熱さがそう感じさせる。ヨーロッパでも、ロシアでもない。日本でも。
いつもいつも現れるお前たちは何なんだ。いつもいつも俺はお前たちに憧れる。出来ることなら、俺は今すぐにでもそこへ…
これはきっと俺にとってのディオニュソスなのか。ランボーが憧れたイメージと、似てはいる。
果たして、俺はアフリカもアジアもアメリカも未経験だ。これはニーチェのディオニュソスか、ランボーのアビシニアか…いつか見つけてやろう。
必ず、この風景を。

2007年2月22日 (木)

アフォリズム

1日は1年の縮図であるとまでは言えないが、少なくとも一週間は1年の縮図であると言えそうだ。

つまり。1週間何もできなければ、1年間何もできていないに等しい。1年間何もできなければ、何もできない人生で終わるに等しい。

俺は哲学という自分にとって未知の学問を学ぼうとしている。1週間のなか、なるべく時間をそのために割いている。
人生を空虚なものにしないためにも。1週間を空虚に過ごしてはならない。戒めである。

俺は常に積極的、能動的でありたい。受け身ばかりの人生なんて退屈で、そして危険だ。自分で考えて自分で歩きたい。

自分から何かしなければ、何も起こらないのだ。自分から世界に存在を叫ばなければ、誰も気づかないのだ。

その足で歩け。その手でつかめ。その口で叫べ。

あなたが自分を自由だと思っているのなら、それは間違いだ。あなたが自分の人生は自分が決めてきたと思っていたら、それは間違いだ。
あなたは、常識というピアノ線で縛られていることに気づいていない。周りの目に睨まれて動けないことに気づいていない。

己を恥じよ。

自由は与えられるのではない。それは奪取されるのだ。

2007年2月20日 (火)

知の旅

知的探求という面で、自分の弱点を明確にし、目標と処方薬を立てる。

数学的論理力の無さ、仏教理解の無さ、西洋哲学の知識の無さが浮き彫りとなっている。これを捨ておいたら前進しない。

①数学的思考の確立。ロジカル・シンキングの骨肉化。
②アリストテレスからスピノザへ、西洋哲学を体系的に習得する。
③仏教理論の掌握。ナーガルジュナからヴァスバンドゥ、天台智ギ、空海までの理論的発展。
④西洋と東洋の連結。ウィトゲンシュタインからナーガルジュナへ、ライプニッツと易経など。

つまり人類が生み出してきた思想の系譜を飲み込みたいのだ。哲学と数学と科学と宗教の輪。

2007年2月18日 (日)

バレンタインチョコ及び誕生日プレゼントくれた方々ありがとう。具体的にはおやしらず、園田"小生"直人、ヒマラヤ理愛、部活の面々などなど。みんな感謝。
いつも思いいつも口にすることだが、俺は周りに恵まれ過ぎている。あれだけ退屈な中学もおかくれの面々のおかげでやって来れたし、高校でも良い友人に恵まれた。バンドのおかげで西山やらとも知り合ったわけだし。目下遂行中の雑誌計画でも知り合いが増えて楽しみだ。
もちろん、知り合いという過程を経て友人という関係に昇華するのだが、その場限り、学校限りの付き合いで終わるとしたら、それは友人でも何でもなく知り合いである。当然俺が増やしたいのは友人である。
少年時代を脱してからの友人という関係は、どんな夜を過ごしてきたかが肝心である。親友を作るのは日中ではない、夜だ。記憶に残る夜を誰と過ごしてきたか。深夜の友は真の友。
もちろん俺の直観である。

マイルス・デイヴィスの『サムデイ・マイ・プリンス・ウィル・カム』を買ったが、最高である。楽器からこれほどまでに思いが伝わってきたのはジミヘンのギター以来である。音楽を心に響かせたい方は是非聴いてもらいたい、マイルスのトランペット。
最高のジャズ体験であった。

2007年2月17日 (土)

イメージ

怒れる神々 荒ぶる王たち
燃え上がる太陽 古代の音楽
長い長い一日の 長い長い一時間
生け贄の血は絶えず土を濡らし
泥まみれのダンスが神に捧げられる
異国の蝶のごとき金髪の娘
青き瞳を隠すことなく舞う
歓喜の絶叫に身を震わせ
千年の歴史になる
エロスの光沢は爆発を感じさせ
生死を一筋の光が駆け巡る
ここは遠い遠い異教の地
永久の祭りが大地を焦がす
遠い遠い異教徒の
遠い遠い歴史の淵

2007年2月14日 (水)

一つのつたない散文

30年前、Jimi Hendrixは一人の可愛いエンジェルが、自分を何処か遠くの、違う世界に連れてってくれると歌った。
歌いながら彼はみんなを違う世界へと連れてった。偽りのない気持ちを抱かせた。
僕はそんな人になりたい。みんなを遠くに連れてってあげたい。自信を持って違う世界へのツアーを案内してあげたい。
みんなを決して後悔させないように、自分の感覚を研ぎ澄ませたい。
こいつと出会って世界が変わったと言われたい。視野が広がったと言われたい。
僕はカリスマも影響力も人気もユーモアない。けれど、きっとみんなを楽しく案内する自信がある。
宮沢賢治みたいに、自分のしたいことを叫ぼう。なりたいものを目指そう。雨にも負けない強い体を、風にも負けない強い意志を。

遊学問のすすめ

今になって、よくわかる。孔子が十有五にして学を志したのを。ナポレオンがパンより本を選んだのを。
まったく学ぶのが楽しくてしょうがない。今はただただ時間が惜しいのだ。
いつの頃からか、日本人は何も知らなくなった。孔子のこともナポレオンのことも、キリスト教も天皇も世界地理も、プラトンもピタゴラスもドストエフスキーもマルクス主義も、太平洋戦争も東京栽培も、ベトナムも安保も温暖化も乱獲も、みんな知らなくなった。
福沢諭吉の『学問のすすめ』から百年、ついに真の意味での学問が途絶えてしまった。
プリクラしか知らない女子高生、ニーチェさえ知らない大学生。神話も知らない学校の先生、サルトルを知らない自称知識人。
物質的価値観ばかり追い求め、精神的なものがなおざりになっているのもいいいところだ。1960年代後半の一種の物質流行とも言える風潮のなかで生まれた精神回復運動も、いまだ普遍的なものへは至っていない。
世の中には見た目が良いものが多すぎる。そしてほとんどが見かけだけである。本人は品がいいことを、良いことを言っているつもりでも、まるで空振りしていることに気づいていない。
精神的なものへ価値を見いだせない者は知識に乏しく、知識に乏しい者は世界観が狭く、世界への認識が甘い。こうした狭い卓見の上で自身は偉そうに語るのだから、まったく吹き飯ものだ。
自分の知っていることを知らないから、知覚していないからそういうことになる。かつて葛洪もそのようなことを述べていた。
結局、とにもかくにも勉強しなければならないということだ。もちろん、ここでいう勉強とは学校勉強だけでなく、あらゆる学問へのアプローチのことである。
楽しんで学ぶ必要がある。遊学である。むしろ、楽しさを見いだせないと学問は向いていないと言うべきか。

2007年2月12日 (月)

真夜中

誰もいない道
誰もいない橋
誰もいない十字路
誰もいない街

真夜中の世界は 日頃の繁栄の声をひそめる
電灯だけがポツンと空しく光っている

トランペットを鳴らせば 音が永遠に道を走っていくような気がする
ため息をつけば 息が水面のように広がっていくような気がする

何もないことが 教えてくれるのは
ここが世界の中心で ぼくの足が大地と繋がっているということ
アスファルトでも覆い隠せない ぼくと大地のはるか昔からの付き合い

風がぼくを待ち人へと運ぶ
誰もいない世界を 確固たる自信で 進み行け
誰かがぼくを待っている

2007年2月10日 (土)

ワン・ヴィジョン

まったく希望に満ち満ちている。俺はついに俺のヴィジョンを捉えた。
俺はライプニッツになる。ゲーテになる。ダ・ヴィンチになる。空海になる。南方熊楠になる。
『老子』は言う、知識は捨てよと。そうして子供のように澄んだ心であるべきだ、と。しかし。しかし、である。当の老子本人が、周の書庫の記録官として膨大な知識を有していたのだ。老子の言う知識を捨てよとは、膨大な知識を有したうえでの言葉であったのだ。
ならば俺は、まずかくのごとく膨大な知識を有してやろう。先に述べた先人たちのごとくに。
そのうえで、世界を見てやろう。知識に経験を染み込ませるのだ。
どんどん自分を磨こう。俺たちは楽器だ、磨けば磨くほど、練習すればするほど、良い音色がする。
とりあえず、ほとんどの学問と芸術を知ろう。古今東西の全てを知ろう。
俺はまだまだ知らないことばかりだ。世界は面白く、深い。

2007年2月 7日 (水)

出来事

昨夜のことは一生忘れることはないだろう。
一つの勇気が燃えていた。信頼を薪にして。

思えば僕は恵まれている。人生における最大の幸福の味の一つを知っている。
千冊の書物を読んでも得られないものを持っている。
これは僕の、何よりの自慢である。誇りである。

ただ、昨夜のみんなは思っただろう、いつか闘わなければならない闇があることを。
もし強大な敵が、僕らの大事な存在を奪おうとしたら、僕らは間違いなく爪を立てる。
見えない自由が欲しくて、見えない銃を撃ちまくる。だから僕は、僕なりの武器を蓄える。

2007年2月 5日 (月)

うらない3

世の中の唐突と思える事件のほとんどが、実は唐突でも何でもなく、何度も前兆を伴っている、ということは多い。
例えば大震災は、何度も起こる小さな地震が前兆になっていたりする。
前兆。それは確かに存在する。大波の前の静けさのように、それはそれとなく事を伝えようとする。
人生における転機やチャンスをつかむこと、それはすなわち事前に前兆を察知して事に備えた結果に他ならない。
『アルケミスト』では前兆を捉える重要性が説かれ、『ジャンピング・マウス』では主人公のネズミが異変を前兆と捉えて追求するところから物語が始まる。
占いの存在意義はほとんどそこにあると思う。前兆のための予測学。
さて、前兆を捉えるということだけで、これだけ言わなければならないのには理由がある。
人は、前兆に気づかない、もしくは気づいても無視しやすいからである。
前兆は無限のパターンが考えられる。誰かとの出会いだったり、初めて行った土地だったり、書棚から落ちてきた一冊の本だったり、ふとした映画のワンシーンだったり。
前兆を捉えるには、全くの偶然は別にして、ある程度のこちら側の意志と積極性がいる。
常にアンテナを張り巡らせること。知識を多く持つこと。視野を広く持つこと。家に閉じこもらないこと。前兆を信じること。これらが重要なポイントだと思う。
さて、まずは身のまわりを見渡していただきたい。前兆は見つかっただろうか。実は、もう既に前兆の星がそばで輝いているのかもしれない。

高橋歩

この男は現在、若者たちの間でカリスマ的な位置にいる。
かく言う俺も『毎日が冒険』にやられたクチである。なかなか癒えない衝撃を与えてくれた。
現在、俺のように衝撃を受けた若者の多くが、高橋歩に盲目的に追従する傾向にある。たてまつってしまったのである。
俺が思うに、高橋歩は功罪ともにある。『毎日が冒険』で訴える行動することの大切さ、それは高橋歩の持つ思想で真珠のような輝きを持つ点である。『人生の地図』のような傑作もある。
しかし、どうも『イツモ。イツマデモ。』や『WORLD JOURNY』後半部に見せるポエム的なもの、あれは必要ない。『人生の地図』だけで十分だと言える。島プロジェクトにおける住民との確執も、原因は高橋サイドにあるし、どうも最近は迷走の感がある。政治本では具体的な政策に関する記述はほとんど見られず、無策なのにやってしまえというメッセージが強すぎる。
盲目的に追従することは危険である。それは読書をしながらの思考停止に等しい。自分で考えて、情報を取捨選択しなければならない。

しかし、やはり俺は高橋歩の行動のメッセージは、素晴らしいと思う。家が、仕事が、勉強が、彼女が、と自分に言い訳して生きてきた者たちへの強力パンチ。
すべてはやるか、やらないか。なんとわかりやすい行動哲学なのだろう。
まあこのわかりやすさが一つの落とし穴なのだが、それをわきまえて策を練りながら行動しようと考えれば、この高橋歩のメッセージは極上のものへと昇華する。

2007年2月 3日 (土)

うらない2

中国の占術は大きく分けて三種類になる。命・卜・相である。
命とは命運をはかる占術で、四柱推命や紫微斗数など人の命運を見る占術が有名だ。他には皇極経世という国家の命運を見るものがある。
卜は命とは違って局部的な吉凶を占うものだ。周易・断易・梅花心易のような易占いの類は全てこれに属し、日本の陰陽師も駆使した六壬神課や方位術の奇門遁甲や太乙神数などがこれに当たる。
相は手相や人相、風水や測字占、姓名判断など、「見る」という作業が重点の占いだ。
これら全ての占いが陰陽五行によって作られているというから驚きだ。天文や暦なども組み合わさってはいるが。
俺が昔から研究しているのはこのうち奇門遁甲と梅花心易である。
奇門遁甲は八方位に休・生・傷・杜・景・死・驚・開の八門と八神を配し、天盤と地盤の二つの八方位の器に十干を配し、八方位+中央に北斗七星+二つの虚星を配して八方位の吉凶を判断する、という複雑な占術だ。年単位、月単位、日単位、時単位の全ての場合を占うことができる。
その昔は兵法として使用されたと言い、周の太公望や漢の張良、三国志の諸葛孔明や明の劉伯温などそうそうたる軍師らがこの占術をこなして戦に勝利してきたと伝えられる。
現代的な使い方で言えば引っ越しや移転の際に凶方を避けたり、旅行や旅で吉方に向かって開運や幸運を望んだり、試験やデートなどで成功を収めたり、などの用途が主である。
兵法だけあって、積極的に動く、行動の占術であると言える。
もう一種が梅花心易である。これは、開祖が梅花を見ただけで隣家の事故を予測したという故事に基づく。
時間や目で見えるもの、聞こえるもの、匂うもの感じるものなど世界の表象の全てを八卦の象徴と見なし、吉凶を判断する。
道具が何もいらない、優れた占術である。家の内にいて外を知る、静の占術と言えよう。
俺はこの二種の占術をゆっくりと研鑽している。もちろん師はいないので古書や原書を漁りながら独学で学んでいる。もちろん秘伝などは一生知らないだろう。
しかし、たったこれだけで東洋思想の裏側を実践できるわけで、非常に面白い。

ユングは易占の的中を彼の心理学で説明しようとし、ライプニッツは八卦の図象にインスピレーションを受けたという。
西洋世界は、ゆっくりと東洋へ歩みよっているのかもしれない。

うらない1

俺は東洋思想を学ぶべきだと再三繰り返しているが、東洋思想には裏の顔がある。
つまり神秘の面だ。仏教であれば孔雀明王経を修して空を飛ぶ飛天の術や、虚空蔵菩薩を祈念して無限の記憶力を得る求聞持法や、怨敵を呪殺する降三世明王法などなど、数多くの呪術が伝わっている。
このような東洋の裏の顔も、もちろん学ぶべきなのだ。仏教では表面上、形而上的な教えを顕教と言い、内面的で身体的な教えを密教と言うが、密教面も重要だということだ。
さて、といっても簡単に学べるわけではないのが秘密の教えというものだ。書物だけでは理解できない世界が、そこにはある。
つまり最終的には現地で現物を見て触って感じることこそ、学問の究極なのである。
しかしそんなことまでできないというのが大半だろう。
そこで、おすすめするのが中国思想の根底を流れる陰陽五行の思想である。
陰陽説とは、宇宙の初めは無極であり、そこに太極という根源的な存在が生まれ、それはやがて陰と陽という二元的な存在を生み、陰陽はお互い絡み合って四象を構成し、四象はお互い絡み合って八卦を構成し、八卦はお互い絡み合って六十四卦を構成し、その六十四卦が世界を構成しているという、数学的な二元論である。万物は陰陽でつくられる。
五行説とは、木・火・土・金・水の五つのエレメントが世界を構成している、という考え方だ。しかもこの五つのエレメントはお互い干渉し合う。木は火を生じ、火は土を、土は金を、金は水を、水は木を生じるという相生と、木は土を殺し、土は水を、水は火を、火は金を、金は木を殺すという相剋の関係があるのだ。
陰陽説は内的イメージであり、五行説は外的イメージだと言えようか。そしてこの二つが絡み合う陰陽五行説こそが、森羅万象を完成させている。
陰陽五行説では時間と空間を同じ単位で表す。しかも、一刻に、一方位に、それぞれ個性を与える。
例えば十二支である。子を北にして空間を十二に分ける。しかも十二支は年月日時をそれぞれ表す。十二支そのものにも陰陽五行が配される。子は水で陽、丑は土で陰、というように。このようにそれぞれの方位や時間に、強い個性を与えている。
現代人は基本的に方位も時間も無個性であると考えているが、これらに個性があるのだと意識したとき、世界の見方が変わるのではないだろうか。12時には12時の美しさがあり、南には南の匂いがある…極端に言えばそういう哲学だ。
そして、そういう哲学だからこそ、時間の吉凶や方位の吉凶を論じる。今年は厄年だとか北が恵方だとか、俗にそんな言い方がされるように。
そして、時間や方位の吉凶を論じ、凶を避け吉に入るための術がいわゆる占術というものだ。うらないである。

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