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2007年5月24日 (木)

ニュース!

『地球交響曲』を知ってる?
龍村仁監督が口コミだけでヒットさせた、自主上映の傑作映画だ。
俺はもう、兼ねがねこの映画が気になっていた。ガイア理論を基底にして、地球を生命が奏で響き合う一つのシンフォニーと見なすこの映画は、本当に素晴らしいテーマだと思う。
そして、この『地球交響曲第六番』が、六月二日の土曜に丸の内で上映会が開かれるという。
生命や動植物や地球環境、神秘や科学、哲学や宗教、音楽や芸術…これらどれかに関心のある人は是非行くべきだと思う。
退屈な日常に閉口している人、新しいことを始めたい人、こういう人も行くべきだ。
行きたいと思う方は俺に連絡してくれ。


俺が哲学を学び始めたのも、過去の思想から、地球や環境や世界の上手い捉え方を見つけるためであった。地球規模の問題であり、個人の生き方の問題なのだ。
『華厳経』に「帝網」という言葉がある。空海は「重々帝網」と言っている。
帝とは帝釈天、つまりインドラ神のことで、その網が世界を覆っているというものだ。
まさにウェブであり、インドラ・ネットワークと呼んで差し支えないだろう。世界は響き合って絡み合って交じり合っているのだ。帝網とはまさにガイア・シンフォニーである。
さあ、このインドラ・ネットワークを劇場で体感しようではないか。日常で感じるために。

2007年5月23日 (水)

ポップであること

今日は面白かった。POP SATORIの店長と数時間において話した。
ブルースについて、ビーチ・ボーイズの真価について、古本屋について、大須について、名古屋のモッズ・シーン及びモッズ・メーデーについて、『アビイ・ロード』でジョンが履いているスプリング・コートについて、音響について、フランスの退廃について、ゴダール及びアメリカン・ニューシネマについて。
年齢は違うが非常に楽しい会話が出来た。むしろ、同世代の方がずいぶん退屈だ…


ああ、まだテスト残ってたっけ…

2007年5月21日 (月)

カウンター・カルチャー

アメリカの社会学者リーズマンは言う、社会の大衆化が文化レベルの下降をもたらすと。
さて、低レベルな文化とは何であろうか。それは大量消費の果てにあるもの、消費の文化であろう。
使い捨ての文化とも言える。
大量消費の時代・1960年代が生んだ文化はロックであったりポップアートであったり、大衆性、ポップさを獲得して栄えた文化ばかりであった。
これがカウンター・カルチャーである。大人の支配する文化への対抗文化、ということだ。ポップでわかりやすい、悪く言えばレベルが低い文化…しかし、そこには抵抗の切実さがあった。自分たちの手で作り上げたという自信があった。確かに大人のコマーシャリズムが介入していたし、文化支持者の大半がそれなりに金のある若者であり本当の意味でポップではなかった。しかし、それでも世代の団結を表明し、積極的に創造したアクティブな文化であった。

そして視線を現在に戻すと、もはや文化が腐敗したままうごめいていることに気づく。明らかに受動的であり、堂々とコマーシャリズムの下、娯楽を享受している。何の切実さもなく、何のやる気もない。理想もない。死んでいる。
結局、俺たちは管理社会の管理下で生かされているだけなのだ。巧妙に牙が抜かれ、毒が隠される。
知らないということはプライドがないということに等しい。支配者は被支配者が無知であることを欲するのだから。60年代のようなカウンター・カルチャーを怖れるあまり、カウンターすることさえ考えられない人間を大量生産している。
こんな管理社会でアナーキーに生きていくには、上から与えられるだけの文化に満足しないことであり、上から与えられるレベルの本を読むのでなく、アクティブな読書をすることだ。支配者の求める無知な人間にならないために。支配者に矛盾を誤魔化されないために。
闘争し続けよう、人間として本当に生きるために。

2007年5月19日 (土)

いとしのチャーリー

チャーリー・ワッツのドラミングの凄さを実感。踊れるドラム。

アトモスフェア

嘔吐するように本を読んだ。


ミック・ジャガーの艶めかしいボーカルが絡みついてくる。


要するに生の実感が得たいだけだ。

2007年5月17日 (木)

海洋曼茶羅

生まれ生まれ生まれ生まれて生の始めに暗く、

死に死に死に死んで死の終わりに冥し。


ー空海


目をつむってこの詩を唱えると、まだ胎内にいた頃の、真っ暗な海を感じる。死ねば、そこへ帰るのだろう。


今回のこのちょっとした知の旅は、未完だが、ひとまずここで終えることにする。
知識が足りなかったせいで、言いたいことの半分もうまく述べられなかった。
それに本当は、生き方の問題、自然観の問題にもっと深入りするつもりだったが、それはまた後日としよう。いつか、全てを改めてまとめようと思う。
とりあえずの話題提起になったら、幸いだ。
これらの一連の話に興味を覚えたら、以下の書籍に目を通してみるといい。


参考

三木成夫『胎児の世界』中公新書

夢野久作『ドグラ・マグラ』教養文庫

村上龍『コインロッカー・ベイビーズ』講談社文庫

『ゲーテ全集14 自然科学論』潮出版社

松岡正剛『空海の夢』春秋社

パスカル『パンセ』中公文庫

井尻正二・湊正雄『地球の歴史』岩波新書

島崎藤村『藤村詩抄』岩波文庫

コインロッカー・ベイビーズ

我々は何処から来たのか。我々は何者か。我々は何処へ行くのか。


ーゴーギャン


過去に向かう「遠いまなざし」というのがある。人間だけに見られる表情であろう。


ー三木成夫『胎児の世界』

冒頭のゴーギャンの絵画のタイトル…これに僕は惹かれてやまない。思えば、これのゆえにここまでやってきた、そんな気もする。
僕にはある直観がある。いつか、何もかもかなぐり捨て、このゴーギャンの問いを自ら確かめに行くような、そんな気がする。1日のノスタルジーが、一生を滅ぼすのだろうか。
血からは逃げられない、何処へ行こうと、地球の歴史を背負った血液が、僕の体を今も脈打って流れているのだ。血の衝動に逆らうことはできない。
あらゆる人に関係する話だ。南の島から流れ着いた椰子の実に、己の血の記憶を重ねる人がいる。月夜の砂漠の風物に、遠い血の源流を求める人がいる。
我々は何処から来たのか。我々は何者か。我々は何処へ行くのか。


さて、本題に戻ろう。
妖気溢れる夢野久作の『胎児の夢』…その理論が、天才・三木成夫の手により現代に復活したのだ。
三木は胎児の顔に着目する。そして、胎児の顔がフカ→ムカシトカゲ→ナマケモノと変遷していることを喝破する。胎児の顔を正面から描くと、こんなにもグロテスクになるとは…
そして、あらゆる陸上生物はその胎内で歴史の再演ー脊椎動物の上陸劇ーを行っているのだと言い、傍証を挙げてゆく。両生類は胎内でなく成長過程で上陸劇を行っているとさえも述べる。


三木の天才はここから更に展開し、森羅万象はリズムであると論を進めるが、それはまたいつか触れることにし、時空と故郷の旅を続けよう。


記憶。三木成夫は堅い椰子の実の殻を割って汁を吸ったとき、思わず「俺はポリネシアから来たのだ!」と叫んだという。
ユングの言うように民族の記憶が遺伝するならば、あり得る話であろう。確かに、直観に科学的根拠はない。しかし、それはパスカルの言う繊細の精神に近い、合理性を抜き去った神秘の感覚である。血の声である。
冒頭の詩人は、そのゆえに言葉を吐いたのだ。いずれの日にか、国に帰らん…


全ては生き方の問題だ。近代が始まってからというもの、人間は古代の記憶をなくしてしまった。
自分たちにとって自然とは何なのか、命とは何なのか、生きるとは何なのか…
生活は考える暇を与えず、思考停止がさらなる悪夢を生む…草は枯れ、海は腐る。
何もかも忘れてしまったのだ。自分たちがどこから来たのかさえも。胎児は叫んでいる!

2007年5月14日 (月)

I can't explain

藤井に誘われて行ってきましたモッズ・メーデー。このカッコ良さは本当に説明できない。
いくつか気づいたことがある。
一つ目は、モッズ音楽にはそんなに詳しくなかったが、それでも十分に楽しめたということ。モッズ音楽の持つアメリカ的側面、ソウルやR&Bが自分の骨肉と化していたことを再確認と、オルガンのカッコ良さの再確認。
二つ目は、モッズ及びスウィンギング・ロンドンのファッションのカッコ良さ。男性は何よりもクールだし、女性は最高にキュート。洗練の二文字の究極形態がそこにあった。
三つ目は、スクーターのカッコ良さ。藤井と深夜に外に出たときの光景は圧巻だった、そこは居並ぶベスパ・ランブレッタの数々に埋め尽くされていた。

やっぱりレイト・シクスティーズは最高だ。そして、その時代を愛する熱気に満ちた夜だった!

2007年5月11日 (金)

生命の海

名も知らぬ遠き島より

流れ寄る椰子の実ひとつ

ふるさとの岸を離れて

汝れはそも波に幾月


もとの樹は生いや茂れる

枝をなおかげをやなせる

我もまた渚を枕

独り身の浮き寝の旅ぞ


実をとりて胸をあつれば

新たなり流離の憂い

海の日の沈むを見れば

たぎり落つ異郷の涙


思いやる八重の汐々

いずれの日にか国に帰らん


ー島崎藤村「椰子の実」


遠い記憶をさかのぼってみよう。
今から約六億年前の先カンブリア紀の地球、エディアカラ動物群と言われる海の動物たち…クラゲやイソギンチャクが主役の時代があった。
時代は下り、カンブリア紀にはバージェス動物群、すなわちアノマロカリスたち複雑化した海の生物が出現した。世界はどこでも浅い、同じような海だった。
しかしカンブリア紀の後のオルドビス紀とシルル紀は、井尻正二の言う「泥の海」となった。世界の海は一様でなくなり、そこでは更に生物は多様化し、ついには三葉虫が現れた。
しかし、世界は徐々に胎動し始めた。カレドニア造山運動…それは現在の北ヨーロッパで徐々に始まった。
そんな中、デボン紀に突入し、サカナの時代がやってきた。まさに、この時代の主役は魚類であった。
しかも、この頃の魚類には肺魚のグループが現れ、生物上陸の兆しが見えてきた。
そして追い討ちをかけるように折りしのカレドニア造山運動に伴う海陸バランスの変化、海水中の生物の氾濫と食物の減少が発生し、ついに生物は陸上に上陸した。
そうして現れたのが両生類だ。しかし、両生類もヴァリスカン造山運動により、砂漠や乾燥地帯が増え、爬虫類に取って代わられる。両生類は水陸両用と言えど、水がなければ生活できないが、爬虫類はそうではない。爬虫類は砂漠ですら生きられるのだ。
こうして恐竜闊歩する中世代の幕が開く。
恐竜の時代の終焉はアルプス造山運動が前奏を奏で、隕石がフィナーレになったらしい。こうして新生代、哺乳類の時代がやってくる。


我々の遠い祖先はこのような発展進化を経て、人間に至った。
そしてついに夢野久作は気づいたのだ、人間の胎児はこの生物発展史をなぞっていると。
この発展史は大ざっぱに魚類時代→両生類時代→爬虫類時代→哺乳類時代と進行したが、これは人間の胎児の発展過程と全く同じなのだ。
受精卵は成長して魚のようになり、カエルのようになり、トカゲのようになり、人らしくなる。地球の歴史を追うように。
それに初期の生物は海なしで生活できなかったが、人も含めて獣の血液や体液はその成分が海水とよく似ているし、特に哺乳類の子宮内の羊水は、海水と同じ成分なのだ。我々は遠い故郷の磯の香りに囲まれながら胎児期を過ごすのである、井尻正二はここから哺乳類を「海をはらむ族」とした。
そしてここから更に、夢野は一大仮説を立てる。胎児は生まれるまでの間、地球の誕生から現在までの歴史を祖先の記憶の遺伝として継承し、その歴史絵巻を夢の中で繰り返しているのだという。

三木成夫はこれに更に続けるが、その話は次回。

2007年5月10日 (木)

海をはらむ族

ウミヲハラムヤカラ…まさにこの詩的に美しい表現を、ある理系の本で目にしたのは大きな喜びであった。
井尻正二・湊正雄の『地球の歴史』という古い本である。この本の古さは、地学系なのにプレート・テクトニクスやプルーム・テクトニクスがほとんど出てこないほどで、僕は専門家でないので断定できないが、現代の科学から見れば、きっと過去の遺物なのだろうと思う。
しかし、この本の詩的な美しさは、現代でも失われていないはずだ。
石炭紀のシダ植物の大森林を吉田一穂を引用して古代緑地と称したり、造山運動を地球の革命と断じたり、我々哺乳類を「海をはらむ族」と喩えたり…
こういう美しい刺激に満ちた本なのであるが、そもそも僕がこんな古い本を手にしたわけを話すのは、それなりに繋がりが見えて有意義であろうから、まずはそこから話すことにする。
最初に、かの文豪ゲーテ、ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテが文学者だけでなく、多様な面を持っていたことを知った。
彼は政治家でもあり、哲学者でもあり、宗教家でもあったわけだが、一番の衝撃は自然科学者の面を垣間見たことである。
しかも彼はその方面の主著である『色彩論』において、ニュートン及びニュートン的自然観を批判しているのだ。
ニュートン的自然観とはまさに近代のフランシス・ベーコンやデカルトから始まる機械論的自然観であり、それは現在に至るまで科学の正統であり続けている。
これを知ったとき、僕は直観した、ゲーテを探れば僕の求める新世紀のための自然観の鉱脈を発掘できるであろうと。僕は早速、『ゲーテ全集』の自然科学巻を手に入れ、調査を始めた。
すると、興味深い人物が浮かび上がった。三木成夫、日本の生物学者である。
この人物は富永半次郎に師事し、孔子や釈迦や其角やクラーゲス、そしてゲーテを学んだという科学一辺倒の学者ではない、博識な男であるらしかった。それに前掲の井尻正二の影響も受けていたのだ。僕はそこから入ったのである。
だがしかし、もっとも驚いたのは、なんとこの男が夢野久作の『ドグラ・マグラ』の影響を受けていたということだ!
実は僕は既にそれを読了していたのだ、五木寛之の本から知って以来。
その『ドグラ・マグラ』はまさに狂気の小説である。精神医学をテーマに、時空間を超越したストーリーを乗せ、更に作中で繰り広げられる科学の珍奇な新説、特に『胎児の夢』という論文が重要な役割を果たしていた。
この『胎児の夢』こそ、三木のゲーテ流形態学にも影響を与えた部分であり、「海をはらむ族」とも繋がるポイントであったのだ。
長くなったので、続きは次回へ見送ることにする。

2007年5月 8日 (火)

古代緑地

幕末期、海舟や龍馬があれほど活躍したのは、藩という小さな枠組みでなく、日本という大きなスパンで物を考えれたというのも大きな要因のひとつだ。
しかし、今もっとも必要なヴィジョンは、地球という感覚、地球という精神、地球という見方だ。
人類はある時、柵を作ってしまった。人と自然を区別し、敵味方を分けた。村と村に分け、クニとクニに分け、藩と藩に分け、国家と国家に分けた。もはや海洋も大空も、国境によって区切られてしまった。
しかし、このように、史上、人類は時を重ねるごとに大きな共同体として区別していった。ならば、もし容易に柵を外せないならば、柵を地球にはめればいい、地球とその他という区分に。

前進するために棄てられたもの、それは人類の歴史には非常に多い。特に、科学が全能の神となってから棄てられた多様なヴィジョン、それは数え切れないほどある。
時には異端とされ、時には黙殺され、時には歪曲され、顧みみられることのなかったヴィジョンたち。
俺は決めた、俺の使命は、そうした棄てられたヴィジョン、思想や宗教たちを、現代の地球に見合う形で復活させ、編集し、地球と自然のための一つのヴィジョンとして、提供したい。これは思想家ではない、俺には独創的な思想は創りえないだろうから。あくまでモダン・タイムスへのアレンジである。
古典を古典のままにしておくのは、愚かである。真の創造は伝統から生まれる。
孤独な闘いとなる。

2007年5月 7日 (月)

これ

そういえば今日、みんなのこのブログに対する意見を聞いたが…ここのスタンスは主が俺の考えの変遷及び結果で、付属として日記がある、というものだ。だからあまり読者を想定していなかった。
もちろん、誰かに対するメッセージというものは存在するが、少数派だ。
読者を想定するものはいずれ書くであろう、よって今は自分のために書く。

千音寺

今日は地元のイカした連中のライブであった。
俺にとっては特に地元という形容をつけなくても、イカした連中といえば彼らしかいない。
そんな奴らの一夜限りのショータイムは、これは非常に楽しかった。会うだけでも楽しいのだから、当然か。
またスタジオにでも入ろう。


三千世界の烏を殺し、ぬしと朝寝がしてみたい。

2007年5月 6日 (日)

功名

酒に対して当に歌うべし。
人生幾ばくぞ、譬えば朝露の如し。

曹操は『短歌行』でそう詠んだ。

もちろんこの歳で人生幾ばくぞと唱えても、どれほど実感が湧くか心もとないのであるが、過去を見つめると、多少確かなものと感じられるのである。

朝露のごとき儚い命なら、せめて功成り名を遂げん。

2007年5月 3日 (木)

箴言

「過ぎた日の善いものごとを忘れ去れば、その人は、まさにその日に、老いぼれる。」―エピクロス『断片』


やっぱり、この哲学者を愛している。

2007年5月 2日 (水)

何を言ったって、それをやったかどうかが大切なのさ。知行合一だ。
野望を持つのはいいけれど、それのために今、何をしている?一番大切なことは一番先にやってかおかないと、出遅れさ。一番難しいなら、なおさらね。
夢は、どんな風にでも在る…出発だ、新しい情と響きとへ。ランボーも詠ってる。

逃げるために口が上手けりゃ、口を棄てろ。雄弁できるなら、世のため人のため使うがいい。

南の国へ行こうって歌ったブルーハーツは、南の国なんかよりもっと遠い場所まで行けたよね。やるか逃げるか、ドースル?そんな優しい歌だった。

豚みたいに生きるのは、楽だ。従って、盲目的に同じ毎日を繰り返せばいいんだから。狼みたいに生きるのは、大変だ。自分の力で、定まらない生活のなか生き抜かなければならない。まさにサルトルの言う自由の刑。しかし、それこそが自由だ。

遊撃しよう。飛んで、跳ねて、しぶとく闘おう。戦場を舞うのだ。

千の矢、千の槍。

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