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2007年5月21日 (月)

カウンター・カルチャー

アメリカの社会学者リーズマンは言う、社会の大衆化が文化レベルの下降をもたらすと。
さて、低レベルな文化とは何であろうか。それは大量消費の果てにあるもの、消費の文化であろう。
使い捨ての文化とも言える。
大量消費の時代・1960年代が生んだ文化はロックであったりポップアートであったり、大衆性、ポップさを獲得して栄えた文化ばかりであった。
これがカウンター・カルチャーである。大人の支配する文化への対抗文化、ということだ。ポップでわかりやすい、悪く言えばレベルが低い文化…しかし、そこには抵抗の切実さがあった。自分たちの手で作り上げたという自信があった。確かに大人のコマーシャリズムが介入していたし、文化支持者の大半がそれなりに金のある若者であり本当の意味でポップではなかった。しかし、それでも世代の団結を表明し、積極的に創造したアクティブな文化であった。

そして視線を現在に戻すと、もはや文化が腐敗したままうごめいていることに気づく。明らかに受動的であり、堂々とコマーシャリズムの下、娯楽を享受している。何の切実さもなく、何のやる気もない。理想もない。死んでいる。
結局、俺たちは管理社会の管理下で生かされているだけなのだ。巧妙に牙が抜かれ、毒が隠される。
知らないということはプライドがないということに等しい。支配者は被支配者が無知であることを欲するのだから。60年代のようなカウンター・カルチャーを怖れるあまり、カウンターすることさえ考えられない人間を大量生産している。
こんな管理社会でアナーキーに生きていくには、上から与えられるだけの文化に満足しないことであり、上から与えられるレベルの本を読むのでなく、アクティブな読書をすることだ。支配者の求める無知な人間にならないために。支配者に矛盾を誤魔化されないために。
闘争し続けよう、人間として本当に生きるために。

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コメント

今日模試だった。少数派、アナーキストは叩かれるということを改めて実感した。

上とは関係ないけど(若干あるかも)
国語の問題で小泉義之って人の「デカルト=哲学のすすめ」ってのが出た。これの内容にめちゃめちゃ共感ってか興味を持った。デカルト読みたい。

今日模試だった。少数派、アナーキストは叩かれるということを改めて実感した。
上とは関係ないけど(若干あるかも)
国語の問題で小泉義之って人の「デカルト=哲学のすすめ」ってのが出た。これの内容にめちゃめちゃ共感ってか興味を持った。デカルト読みたい。

今日模試だった。少数派、アナーキストは叩かれるということを改めて実感した。
上とは関係ないけど(若干あるかも)
国語の問題で小泉義之って人の「デカルト=哲学のすすめ」ってのが出た。これの内容にめちゃめちゃ共感ってか興味を持った。デカルト読みたい。

確かにその評論も権力と対峙してるのをにおわせる文章だった。
ただ模試自体、選別の予行演習だからな、それを常に自覚していないと。
それに俺が上の文で問題提起したのは盲目従順に生きることに対してだから。ロックンロールはそういうスタイルの生だとも思う。
デカルトは『方法序説』読めばいい。ライバルのパスカルの『パンセ』も読むべき。
デカルトが示したのは全て疑うこと。盲目従順に喝を入れたとも言える。

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