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2007年8月30日 (木)

Turn on

そろそろまとまってきたので、筆を執り始めます。
曲学を始めて七年、無駄であったとは思わないー…どうせなら、来年の制度的な区切りを受ける前に、自ら区切りを付けて置きたい。
ということで、しばらくここには書きません。エクスペリメントとしての文章ならいくつか投下するかもしれないが、原則的には書かない、ということです。

2007年8月28日 (火)

雑多

模試良かった〜あとは数学から点数搾り出せば完成だ。乳搾りのごとく。

ということで気分が良いので『ローマの休日』を観た。

いやあ、いつ観てもいいなあ…俺にとってこの映画は、幸せな時に観ると幸せが二倍になる映画。

この時の神がかったオードリーは言うまでもないが、グレゴリー・ペックのヒゲの剃り跡もイカしている。

2007年8月27日 (月)

ミヨリの森

見た人いる?

俺は見た。見て良かった、なかなか良かった。原作読んでみる気になった。

俺には田舎がない。両親ともに実家は名古屋市内なのだ。だからミヨリの森の舞台のような田舎にはある種の憧れを感じる。

主人公のミヨリが田舎に対し嫌悪しながらも順応していくんだけど、俺はなんか共感できた。俺には田舎がないけど、自分のいろんな経験を思い出すと、都会の人間にとって田舎に住むのがどれほど大変かがわかる。去年の夏に行った琵琶湖では飲み物探しに町まで行くのに三時間もかかったし、去年の冬に行った奈良の三輪山では田舎の夜の暗さ、本物の闇を体験した。

しかし結局ミヨリは田舎に順応する。俺も田舎の良さは感じていて、琵琶湖の夕日と三輪山からの夕日は忘れられないものがあった。ミヨリが田舎を好きになるのもそれなりにわかる。

このアニメには森の精霊として魑魅魍魎がたくさん出てくるが、このへんはトトロと違って日本の田舎のリアリティがある。それは神話の神々だったり民話の妖怪だったりするわけで、そういう土俗的なものはトトロみたいなのではありえない。宮崎アニメなら『もののけ姫』『千と千尋の神隠し』あたりの妖怪の方がリアリティがある。

俺の実感としては、やはりそうした魑魅魍魎は日本の田舎の表現に必要であると思う。三輪山でヒシヒシと感じたのが、そうした魑魅魍魎の気配(霊感というわけじゃなくて神秘的な雰囲気みたいな)だった。夜の闇の中だったせいもあるだろうが、確かに何か精霊やら妖怪やらがいそうな気がした。

アニメのクライマックスはダム計画の業者と、ミヨリとその仲間と精霊たちが闘うというものであったが、いろいろなイメージが湧いた。

葛城山を疾駆する役行者を思い浮かべたり、なんかもした。やはりこういう土俗の底流はどこかで繋がっている気がしてならない。

もちろんこうしたストーリーは普遍的なのだが、やはり考えさせられるものがあった。

俺も一度、時間を意識せず、好きなだけ、田舎なり山なりに籠もってみたい。そうすれば、また違う世界が見えてくるかもしれない。都会の価値観に汚された心を、洗い流せるかもしれない。誰の意志も介さない、本当の、一番美しい自分が取り戻せるかもしれない。

俺には田舎がないので“都会のモード”しか知らないが、それしか知らないのは、きっと危険なことだろう。

2007年8月25日 (土)

アンダー・マイ・サム

『アフターマス』っぽさを探しに、旅に出たい。

シャレード

四年ぶりに観た。こんな面白い映画だったんだ、と今さらながら知った。
前に観たのは中3の修学旅行の淡路島の旅館でだったが、部屋の喧騒で集中して観れなかったのを覚えている。
にしても洗練された映画だなあ…キャストも衣装も音楽も、スタイリッシュだった。ヨーロッパの空気を味わえた。

2007年8月24日 (金)

至福

『ザッツ・エンタテインメント』買ってきた。

ジュディ・ガーランドがとにかく凄い。もちろんジーン・ケリーも。

一番感動したのが画質の良さ。『オズの魔法使い』って本当はこんな綺麗な映像だったんだ!例の格安DVDでしか見てない俺には羨ましくてしょうがない。

そのうちに通常プライスの『オズ〜』を買おうと思わせられた。

そういえば『マイ・フェア・レディ』も安くなってた。マリア・カラスの涙がちょちょ切れるぜ。

あ、あと、映画の冒頭にシナトラがこんなことをぼやいていた、


“ミュージカルには…思想の深みはありませんが、時代の表情があります”


とかなんとか。言い得て妙。まあそれがザッツ・エンタテインメントなんだろう。

欲しいDVD

『ウルトラセブン』の最終巻及びメトロン星人収録巻。
『麗しのサブリナ』
『ティファニーで朝食を』
『ザッツ・エンタテインメント』
『メリーポピンズ』

凄く偏りのあるエンターテインメントになってまった。

2007年8月23日 (木)

情熱の真っ赤な薔薇

それは熱い熱い一日でした。

僕らのルールでは、逃げたら負け、でした。
僕は勝負に熱中してしまうと、ルールなんて忘れてしまうことがよくあります。
今回もそうでした。僕は大事なことを忘れていました。
僕は書物の森に深入りしすぎていました。高度な理論とか、美辞麗句とか、いつしかそんなものばかりを望むようになりました。
もちろん僕の主たる武器は知識ですが、それだけでは勝負に勝っても試合に負けています。なぜなら、ルール違反をしているのですから。
僕はもっと大切なものを読みとるべきでした。それは不屈の意志です。
官憲と貧困にどれだけ追い込まれても書き続け、闘い続けたマルクス。共同体から破門されても自分の闘いをやめなかったスピノザ。
僕は最初に彼らの何に惹かれたのか、すっかり忘れていたようです。
また一から学び直さなくちゃならない。
けれど運が良かったことに、僕はこれを何か後悔してしまう前に気づけたのでした。
腕っぷしが強くても、頭が良くても、可愛くてもハンサムでも、それだけじゃあ何の意味もない…情熱を忘れたら、逃げたら、自分を敗北者と思い続けなければならなくなるのです。

ウルトラマンがヒーローなのは、怪獣をぶん殴れるほど強いからではなくて、迷ったり悩んだりしながらも自分の使命から逃げないから、なんだろうと思いました。

2007年8月22日 (水)

アルス・マグナ

アートは、もとはアルスと言った。ラテン語である。それはギリシャ語のテクネーから来ている。
テクネーはテクニックの語源だとすぐに推測出来るが、つまり元々は技術という意味であった。
アルスには自然の配置という意味もあり、つまり自然への技術の意であった。
自然への技術、これにはあらゆる意味を含むはずである。 知識、神学、労働、芸術、科学、哲学、言語、魔術、生物、鉱物…あらゆる知が、そこには充満している。大いなる自然の術、アルス・マグナとはすなわち宇宙の言語への壮大な錬金術であった。
古今東西、この術を会得しようとした賢者たちが存在する。アリストテレス、フランシス・ベーコン、デカルト、ライプニッツ、ディドロ、空海…それは一へと収斂してゆくイデアの国に見えるが、多へ拡散してゆく華厳の道でもあった。
一から多へ、多から一へ。大日如来は宇宙に充満し、曼茶羅は1から∞へと光速で駆け抜ける。
阿字から広がる無限の詩、夢幻の音楽。月の声が波となって地球にバウンドする。
アナキズムは“それ”に回帰しようとし、ダダイズムは“それ”の乳を飲もうとし、シュールレアリスムは“それ”を呑み込もうとしたダイナミズムであった。
もちろん容易に神秘主義とも結び付き、アカシック・レコードを生んだ。ついでにカリオストロ伯爵のようなのも産んだ。
東洋ではそれを虚空蔵と呼び、空海はそれごと口の中に入れてしまうという荒行をした。
アルスはマルスを超え、僕らを衛星にし続ける。

2007年8月21日 (火)

a diary

昨日は記述模試で、まあまあ出来たはずだなと思い込む。それからジュンク堂書店に行き、買ったのが『スピノザ 共同性のポリティクス』という前から目星つけてたやつと岩波文庫でベーコンの『ノヴム・オルガヌム』、中公クラシックスで今西錦司の『生物の世界』。気分はひとりでハイテンション、おかげで家に着いたら真っ先に冷蔵庫に埋蔵されていた缶ビールを奪取、リビングで扇風機を回して飲みながら読書、BGMはストーンズの『アフターマス』を延々と。
読んでいたのが『マルクスのエコロジー』という刺激的な大著、の多分一番退屈なデータ羅列に近いところを酔いに任せて苦虫を噛み潰したように読む。その後母親が『アフターマス』を止め、買ってきたコブクロのベストを流し出しそれに弟が同調したのでいたたまれなくなる。外を見ると雷が止んでいたので、約束していた藤井の家に向かう。
用事を済ませた後に二人でダラダラしていると園田を呼ぼうと言うことになる。
彼が来てから話は段々と人糞の話になり、それが次第に小学時代にその名を轟かせた有名な糞漏らし君の話になり、その彼のテーマソングを作ろうということになる。
俺と藤井の二人でギターを使って作っていると何故か名作の予感、真剣になって完成を見るのが深夜になる。
それから今日の再会を約束し、帰路につく。家に着いたのが三時だったが藤井に借りた『20世紀少年』の最新巻とその前巻を読み出して五時に眠りにつく。
そして昼前に集まって東へ向かう、途中で昼食をしにデパートに入る、ラーメンをすする。すると後方のコーナーで海賊版系統のCDのセールを見つけ、すぐさま参入する。
僕は少々いかがわしい『不滅の映画音楽』500円を購入。「風と共に去りぬ」や「虹の彼方に」が入っていて惹かれたのだ。しかしDVDのセールコーナーで婆がグレゴリー・ペックなんか駄目だと喋っていたので少し気分を損ねる。が、確かにジーン・ケリーに比べりゃクソだ、と思い直すと何故か傘を片手に雨の中踊りたくなる衝動を覚える。
その後出発、目的の町・大須に到着する。僕らはモッドでポップでスウィンギンな某古着屋に向かう。僕はブライアン・ジョーンズが楽屋で着てそうなシャツを買う。
そして一同中古CD屋へ。僕は途中、松屋で水のみを注文する。
CD屋では僕はセール品で東京佼成のマーチ集を見つけたので買う。頭の中で星条旗が永遠になりそうだった。
店内のバンドのメンバー募集の貼り紙で面白そうな編成のバンドがあったのでメモし、店を出る。
僕は古書店で以前から目星をつけていた中公の世界の名著シリーズでレヴィ=ストロースの『悲しき熱帯』が収録してある巻を買う。400円。
次に三人でコメ兵に向かう、僕はもう何も買うつもりはなかったので階段近くでさっきのレヴィ=ストロースを読もうと思ったら案の定追い出されたので藤井のチャリンコの上でパラパラ読む。
三人はまた藤井家に戻り、僕が貸していた『69 sixty-nine』という映画のDVDを見る。何度も観たがそれでも楽しめるなあ、と思っていたら藤井家のルビーという鉱物みたいな名前のチビっこいイヌが僕に襲いかかり、腰回りを入念に舐められる。
僕は昔知り合いの家でそこのチワワに殺されそうになっているのでその経験により今回もルビーを恐怖し、鉱物扱いが出来ない始末だった。
僕がルビーに襲われる度に藤井は追い払ってくれたが、何故か何度も復活してその都度僕を震え上がらせた。
そして映画を見終わり僕は今よりもっと人生を楽しむべきだ、と感じて快い気分になっていたらまたしても犬公が現れたので僕はすぐに階上へ逃げた。
そしてクリームを聴きながらメモったバンドに電話、腐っても受験生なのでもちろんバンドメンバーになる気はなく、とりあえずファンにならせてくれと難しい要求をしつつも相手方のジェントルマンは快く承諾、連絡先を教え合って今度是非会おうと約束した。それから藤井と昨日の曲にメロディをつけ、自己満足しつつ解散。

久しぶりに日記を書いてみたのです。現在形と過去形が入り乱れてるのは、一応故意です。
書いていて、やはりこんなこと書く意味はないな、と確信できて良かったです。
久しぶりに一日中世事から解放されていたのですこぶる楽しかったという理由で、書いてみたのでした。最後までお読みくださった方、ありがとうございました。やはり生活をさらけ出す意味は皆無ですね、その点は三島由紀夫もジョン・レノンもバカだったと思います。

2007年8月19日 (日)

闘え!

哲学を止揚するには哲学を現実化せねばならないと吠えたのは青年マルクスだったが、もちろんこれは僕らの現在形的課題である。
ソクラテス以来の伝統で、哲学には社会の矛盾を告発するという側面がある(そしてソクラテスはその矛盾に殺されたわけだ)。
僕はソクラテスの正統な後継者であるので(もちろん僕はオックスフォード大学でヘーゲルの子孫(なんているかどうか知らんが)に学んだわけでもないし、所詮テキストは岩波文庫という一介の日本人に過ぎないが、それにかこつけて哲学を求める人はみんなソクラテスの正統だ!だからみんな仲間だ!という自説を振り回している、とこういうわけだ)、世界の矛盾には興味津々たるものがある。
しかし興味津々たるだけではいかん、とマルクス君は言うのだ。「現実に実現せよ!」もっともな意見だ。
さて今日の世界の矛盾とはやはり貧困問題や環境問題といったことになる。
だいたい儒学も仏教もそうだが、哲学が原典を一言一句解釈することに専念するようになったら、それは腐敗だ。もっと大技でなければならん。
もちろん一言一句解釈するような地道な作業も必要だが、全員が全員それをやっていたら進歩はない。物理学でいうところのアインシュタインのようなのがいたっていい。
まあこれは余談だったが、とにかく哲学者はすべからく世界の矛盾に敏感であるべきだ。そうでなかったらそれは哲学じゃない、いくら凄い大学で凄い先生についてもそれじゃあ意味がない、ソクラテスの伝統を何にも継いでいない、それなら岩波文庫の僕の方がマシだと、口を大にして言いたい。
とにかく、書物から顔を上げよ、書を捨てよ、街へ出よう。世界を見よ。
結局、闘いなのだ。しかし、それだってソクラテスの頃からの伝統だ。

星山夢夜

山の件、29日に挙行。いや、挙兵。
来たい者、老若男女不問にて、各自自己責任にて参加されたし。
夢を語らい夏を語らい思いを語らう場にしたく、楽しみにする。
天候状況次第ではその前日にするかもしれぬ。
山はもちろん自然の結晶であり脅威である、舐めてかかると命を落とす、そのへん肝に銘じるべし。

二十一世紀精神

面白い時代にしたい。
1968年より面白い年を迎えたい。

いつか、子や孫が、心からうらやむような、そんな時代にしたい。
二十世紀は面白かった。面白かったけど、人が死にすぎた。
二十一世紀精神。死なずに楽しい百年を。

世界が火を吹く時代。けどドンパチしない時代。
汗だくだけど誇り高い、そんな時代。

もちろんそれなりに
命を懸ける必要が、ある。

2007年8月18日 (土)

フランシス・ベーコン卿

空きがあったのでサッと読んだらスッと読めた、ベーコンの『ニュー・アトランティス』。
だいたいデカルトやベーコンって損な役回りで、近年のエコロジー普及では鬼の首を取ったみたいにこの二人の哲学が自然破壊を促進したって言われる。
もちろんそういう面もあるんだけど、ベーコン読んでみてわかったのが、その逆もあるってこと。
彼は自然との調和を目指していて、科学技術の恐ろしさをよくわかってるってのがわかった。
もちろんデカルトの動物を機械と呼んだりする点などには反発したくなるけど、やはり彼も憎みきれない。パスカルよりも魅力的に見えるときさえある。
それに、特に理性崇拝と見られがちなベーコンが想像力を理性より賛美していたのが印象的だった。
そういえばシェリーの『詩の擁護』には、彼はダンテ、ペトラルカ、ボッカチオ、チョーサー、シェイクスピア、カルデロン、ミルトンらと並び称されている。
この事実は、ベーコンが単にルネサンス時代に活躍したことのみならず、理性以外にその感性をもこの類いまれなる英国の詩人に認められていたということになろう。
フランシス・ベーコン。避けられそうにない男だ。

戦場に架ける橋

いい映画だなあ。
大隊長は男の鑑であります。

マックス・ローチ

が死んじまった!
俺がジャズを聴き始めたキッカケの一つだった、彼とブラウニーのバンド!
ジャズがとびきり刺激的な音楽だっていうのは彼のドラムで知ったんだ。
オサレでタキシードで高級レストランなのばかりがジャズじゃないって教えてくれたんだ彼は。
彼のA列車はとっても楽しいものだった、彼の旅路が楽しいものでありますよう!

2007年8月17日 (金)

湯川潮音

知ってる?いいよ。
一度聴いてみて。

2007年8月16日 (木)

晩夏!

夏が終わる。
別にドラマチックなことはない。
ただ、少しサンセットが物悲しくなるだけだ。
いいのか夏が、夏が終わるぞ。
終わる、終わる。
セミの死はそういうことか。
晩夏の挽歌、とこういうわけだ。
「コンドルは飛んでいく」が身に沁みてくる。誰かが口笛で唄っていそうなメロディ。死にゆく夏のメロディ。
書けば書くほど重くなっている。陰鬱になる前に考えよう、さあ、やり残したことは何だ?
「どっかの山の頂上でビール飲みながら星を見る」これだ!
花火もやった、宴会もした、朝日も見た、人ん家にも泊まった。およそ定番はやってきた…残るはそれしかない。
夏が終わる、終わる前に。

セミ

セミって自殺するもの?
昨日、三匹ぐらい家の壁に体当たりしてきてベランダに落ちて絶命していた。

2007年8月15日 (水)

言い訳猿

以前に書くと言った原稿、まだ一字たりとも書いていない。
ここに至ってアントニオ・ネグリを読まなくてはならなくなったのが大きい。
というのも最初の構想では自然観に関することのみであったが、例の〈帝国〉とマルチチュード論、さらにスピノザ・マキャヴェリ・モンテスキューのラインも埋め込みたくなった。
さらに反ダーウィンの系譜として、クロポトキンをも放り込む。ここに至って当初の計画は完全に頓挫した。
非常にまとまりにくくなるような気がするが、やらねばなるまい。

2007年8月14日 (火)

メトロン星人

大好きだ…

セブンのDVD買ってしまおうか。

ここ数日、いろんなことがありました。

何人かと、いっそう親しくなったような気もする。

あー幸せ。感謝してます。

流れ星は、何の叙情もなく、すらすらと流れてゆきます。

でもその場には、たしかに叙情がありました。

大切な思い出であります。


誰か、夏の終わり、山に行かないか。

雲上で星を見てみたい。

2007年8月13日 (月)

カール

天才には、時代を先取りし過ぎてしまうタイプがある。
彼らはそのせいで自らの時代やその後の時代では真価が理解されなかったりする。
その典型がカール・マルクスである。
レーニンやトロツキーの頭脳をもってしても、その真価が解されることはなく、むしろ諸悪の根源として人々から恐れられた。
だがしかし、ルイ・アルチュセールという男が現れてから、状況は一変した。
それまでのレーニン主義的理解をマルクスから払拭し、全く新しい思想家として捉えることに成功したのだ。
そうしてマルクスの新たな地平が開けたのだ。
僕が興味があるのは、このマルクスである。

2007年8月12日 (日)

夏の日

墓参りに行ったら、小学校時代の友達に会った。別段仲良かったわけでもないが、何となく感慨深かった。

彼は中学の卒業文集に、書くことがない、とだけ書いてあった。あれを読んで小さな衝撃を受けなかった者はいまい。

彼は、今度こそは書くことに困らないような毎日を送っているだろうか。

思えば、昔のような天真爛漫さがなくなって、翳りを帯びていたのが印象的であった。


ホールデン・コールフィールドは家に帰り

“スタンド・バイ・ミー”も歳をとる

仕方ないさ

2007年8月10日 (金)

上條名古屋帰還

ああ自分卑怯だ、藤木君以下だわ。
危うく気づかず過ぎるところだった、まずは藤木君を見習って自虐しよう。そっから立て直してしっかりしようか。
パッシブが必要なときにパッシブでいられてないのはわかってたが、アクティブが必要なときにアクティブになれてなかったとは。
休むのは星に帰ってからでいい。

2007年8月 8日 (水)

自然について、および構想

僕は別に特別自然豊かな土地で育ったわけでもないが、昔から“自然”という具体的な存在が気になり続けていた。
自然破壊というものはいくら防ごうと“自然破壊という精神”から自らを解放しない限り際限がないとも考えるようになった。
そんな中、哲学に興味を持ったのも当然といえるかもしれない。動物は機械だと言い放つデカルトは近代という精神、科学という精神そのものだったし、資本主義の精神は帝国主義と環境破壊に向かうということも知ったりした。
それは逆に、“自然破壊という精神”に対抗できる精神を探す旅でもある。理性から感覚を取り戻すエピクロス、“繊細の精神”で直観を守るパスカル、感性の科学を探るゲーテ、“神および自然”のスピノザ、人間主義すなわち自然主義と説くマルクス…さらに“詩歌の世界”の科学者たる寺田寅彦、神秘としか形容のしがたい三木成夫、共存を根に持つ進化論をもとにした“自然学”を提唱した今西錦司…彼ら日本の科学者の自然観にも非常に影響を受けた。もちろんそれは東洋の自然観を根底に持っている、ということだ。
そこでこの夏ずっと構想しているのが、それらを有機的に結合させて一つの有機体的精神を作ろうというものだ。
いや、精神を作るという言い方もおかしい。精神はかつてあったのだ。それはつまり化石を掘り出して組み立てて一つの恐竜にしようというのに似ている。
もちろん全く同一の復元は期待できない…化石に色がないように。昔ならそこに宗教を使うのだろうが、僕はもちろん使わない。直観を使うのだ。
何にせよ、研究がまだまだ足りない。しかし作りたい。

2007年8月 6日 (月)

素玄定理

僕が経験した友人関係には二種あって、それは名づけるなら素人と玄人に分かれる。
素人タイプはリアルタイムに何かしつつある友人関係のことで、その後の関係の全ての土台となる時期だ。素人と銘打ってはいるが、この時期の瞬間が一番貴く、とかく永遠性を帯びるものだ。
しかし人間生活に不変なものはないので、別れのときが必ず来る。そして、それが永遠の別れなら、以下の話は無効である。
さて、別れてしまった、もしくは黄金期が過ぎた後の友人関係こそ、玄人関係である。
はっきり言えば、何もなすことがない。何も話す必要もないし、聞く必要もない。だがそれは悲しいことではない…だから玄人というタームを使うのだが、“話さなくてもわかっている”という暗黙の了解がそこにはあるのだ。それはもちろん素人時代において様々なことを共にした、という実感がなせるわざだ。そして、それこそが玄人の良さなのだ。
しかし当たり前のことだが、話が弾む場合がある。しかし、それはほとんどが素人時代に関する昔話やその延長線である。つまり、基本的には何も“新しい”ことはないのだ。だから、創造的な会話など決してあり得ないだろう。
だが、それが素晴らしくのだ。「友、遠方より来たる、また楽しからずや。」…このセンテンスの友とは、玄人の方に違いない。あの人生の楽しみを知る爺さんのことだから、きっとそうなのだろう。
さて、もちろん素人玄人の別は固定したものではなく、玄人が素人になることもあるだろう。そう考えると、さらに人生に果てしない楽しみを見出すことができる。

奇景

アイスコーヒーの中に、とれたての月が一つ。

うん、それは夏の贈り物。水晶には海を、月には…歴史を。


泉から湧き出るのは北極星、砂漠にはサファイヤが埋まる。

すべては方角を指している。だがそれは歪んだ真珠。


コズミック・ダンスは変幻自在、

日月星辰は渦を巻き、

天羅地網の笛が鳴る

星の形而上学は見えない繊維、

月の社会主義は…


…アイスコーヒーの中の月。

ぼくらのエウロペ

思うに僕の中のヨーロッパは3つあって、それはフランスとロシアとスペインなのである。
別にかの国が特別好きなわけではないが、たまに自分のフランス指向とロシア指向、スペイン指向が顔を出すときがある。
もちろんどの国も行ったことがないものだから滅多なことは言えないが、少なからず“ロシア的”や“フランス的”なるものに惹かれるのである。
一番顕著なのはシャガールで、僕は前々から何となくシャガールが好きであったが、いくらかの絵以外に彼のことはまったく知らなかった。
しかし先々月ぐらいに彼の画集を古本屋で買った際、何より素晴らしく感じたのが土俗ロシアの絵であった。シャガールがロシア系であることもその本で知った。
さらに石川啄木の中に散見するロシアも気になり、クロポトキンらロシアン・アナーキズムの系譜も気になるところだ。
フランスはと言うと、やはり退廃的なフランスに魅力を感じる。主にアルチュール・ランボーを読んだときからその魅力に打たれ、ヴェルレーヌやボードレールによって一層かき立てられた。
そして極めつけは革命であり、ディドロ、ダランベール、ヴォルテールら啓蒙思想家から、バスティーユ牢獄からパリ・コミューン、五月革命までその革命史には魅力を感じざるをえない。
スペインはと言うと、やはりその異国情緒に惹かれる。チック・コリアの指向するスペインも好きだし、ガルシーア・ロルカというスペイン的天才スペイン児(!)も好きなのである。過ぎ去った情熱、といった憂愁がこもるのもいい。


以上はすべて我が観念の世界なので行ってみたら幻滅するかもしれないが、そういうことはまた別の話である。
どちらにしろ日本は歴史的に、そして科学的にヨーロッパを誤解していたのだから、いま僕が自分なりにヨーロッパを眺めても、悪いこととは思えない。

2007年8月 3日 (金)

今西錦司との出会い

僕は読書で、丸太でぶん殴られたような驚天動地の感覚というのはそうそう味わったことがない。マルクスと三木成夫、寺田寅彦ぐらいだった。
しかし最近、今西錦司の著作により似たような感覚を覚えた。
余談だが僕はやはりこうした日本人の科学者や文学者には先生と付け足したくなる。僕が今のところ心から先生と呼びたくなる先人は幸田露伴、寺田寅彦、三木成夫、そして今西錦司なのである。
さて、今西錦司の何に衝撃を受けたかというと、全部だ。彼の進化論も、それを元にした自然学も。
彼の自然学の提唱にはすこぶる興味をそそられた。エピクロス以来死んでいた自然学という学を、今西流に復活させようというものだった。
今は詳しくは述べないが、僕はこの自然学に無限の可能性を感じた。そして今は目下、マルクスに今西をぶつけてみようと思うのである。

海の時代

福井で縄文の丸木舟が五挺も出土したらしい。僕はなんだか嬉しくなった。
縄文時代の何に惹かれるかというと、やはり古代大航海時代といえるほど海に生きていたというところだ。
中国の史書なんかには朝鮮半島や長江下流に倭人がいたなんて書かれてあるけど、これは別に不可思議でも何でもない、縄文時代を海の時代と考えるならば。
前に書いたスサノオの朝鮮半島から日本へ渡ったという話も多分そういったことを反映しているのだろう。
それに、縄文時代の主役を日本列島から海に差し替えて考えてみれば、朝鮮→日本の文化伝播のみでなく、日本→朝鮮の伝播もあったと考えられる。実際、そうとしか考えられないコメが見つかっているらしい。
国境なんてなかったのだ。海があっただけなのだ。僕はこんな時代の今こそ、この史観を提唱したい。海の史観である。
さて、縄文時代のもう一方の雄は山の民だ。狩猟採集の民である。
僕は山の民と海の民はそう遠くない間柄、というか“一緒くた”だったのではないかと思う。
舟を作るには木がいる。それは山民たちの協力がなければ不可能だ。それにあの時代に海に出れば頼りになるのは、夜は星であり昼は山であったろう。山はランドマークであったはずなのだ(同時に星神信仰も生まれたはずである)。神話でも海幸彦と山幸彦の二人は血を分けた兄弟であった。そして後世、平地の常民たちは山に住む者を鬼や鬼婆と呼んで恐れたが、それは海の彼方からの外来者に対してでもあった。彼らは海から来た人々をも鬼と恐れたのだ。
こうしたことから、僕は海と山は一緒くただったと考えるのである。
僕らはこの国境なき精神、大海原の精神、スサノオの精神を受け継ぐべきである。何もアイヌや沖縄や熊野や東北だけに継承される必要はない、僕らはみな受け継ぐべきである。

2007年8月 2日 (木)

Mozart→Corea

今しばらくはチック・コリアしか聴いていない。それも『リターン・トゥ・フォーエヴァー』のみを延々と。
まったく素晴らしいバンドだ。フルートとソプラノサックス、それにベースがお気に入り。
主題の永劫回帰も魅力的だが、何よりその音楽の美しいこと。地球的なスケールで鳴っている感じだ。
未聴の方には夏の一枚にチック・コリアをお勧めしたい。

2007年8月 1日 (水)

Les Murs ont la Parole

ふと考える。鬼が笑うかもしれないが、大学に行ったら、何を頑張ろうか。やりたいことはいろいろある。それはいずれも個人的だ。だが、誰かと一緒に頑張る、というのもいい。でも高校時代のようには行かないだろう。もう二度とないから尊いというような気もする。

元来僕は欲張りな方で、浪費したりするのもしょっちゅうだ。

けれどこの三年間は幸福が勝手に転がり込んできた方のが多い。友達にも部活の仲間にも先輩後輩にも恵まれ、さらに人間関係に煩わされることはほとんどなかった。バンドだって好き勝手やれたし、趣味も増えて暇に困ることもない。

そりゃ大変なときがなかったと意ったら嘘になるが、一瞬のことにすぎない。

愚にもつかない中学生活を送ったおかげで、少しは学んだのかもしれない。が、やはり半分以上は人知及ばざる神の御手の仕業であった。

それなら明神さまか阿弥陀如来か、ご先祖様かオテントサマか、エホバにアラーにハレ・クリシュナか、とにかく何神さまでも御礼申し上げたい。

さてしかしこの三年間は心理学上重要な自我の確立期間だと聞くが、はたしてそんなものが確立されたか、はなはだ怪しいところだ。

たしかに中学を卒業したあたり、自分はなんて無一物で無能なナッシングなんだと思っていたときもあった。しかし今なら、僕という人間はこういうことを頑張ってきて能があるかは別にしてとにかくやってきて他にもこういうことをしてこういうものを得てこういう思い出があります、と話すことができる。それとジガのカクリツに何の関係があるかと聞かれたらはなはだ困惑するが、もし関係ないものなら僕にはジガのカクリツなんてどうでもいいものだ。


現実を欲すること
欲することを現実化すること もっと結構!


なんて言葉が68年のパリの壁に描き殴られたのだが、思えば僕の人生は現実を欲することばかりだった。つまらない欲だ、あれが欲しいこれが欲しいと、ケダモノと何ら変わることがなかった。

しかし、欲望を現実化する貴重な体験のおかげもあって、この新しい欲望の形を知った。

理想主義とはそういうことだ。現実を変えようとするエネルギー、現実に実現しようとする情熱のことだ。


かつて われらの いだいていたような理想は、われらの発見したごとく、哀れな空想にすぎなかった、‘Life illusion’にすぎなかった.しかし、われらは生きている、また、生きねばならぬ.あらゆるものを破壊しつくして 新たに われらの手ずからたてた、この理想は、もはや哀れな空想ではない.理想そのものは やはり‘Life illusion’だとしても、それなしには生きられぬのだーー


かつて石川啄木は日記にそう書いた。このくだりは、何度読んでも胸が熱くなる。

僕はまだヴィジョンを得ているとは言い難いが、僕には僕のぼんやりとした希望がある。芥川はぼんやりとした不安を抱いて自殺したが、僕は幸いにその逆である。

理想という言葉は青く、恥ずかしい。しかし、何より激しい。

何処まで遠くへ行けるだろうか。これは戦いだ、‘All or Nothing’ーー僕らの世代の人間はこの語に尽きるだろう。


多くを語った気がする。だが、もっと突き詰めて自分を裸にしなければならないのかもしれない。だが今は、これが精一杯なのだ。

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