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2009年1月31日 (土)

時をかける少女

不覚にもホロリ。女子高生って本当にいいものですね。

相変わらず細田守のアニメーションは最高ですね。時をかけるシーンはオメガモンとディアボロモンの闘いを想起させます。

気づいたらこのブログ、漫画かアニメの話ばかりですね。大して詳しくもないのに、どうしよう。

昨日はちょっとだけ慈円を読みました。日本文学と日本思想はよろしい。

2009年1月29日 (木)

アッー

神秘主義に転向したわけではないが、興味深い現象がある。戦前と現在の相似だ。

大本教弾圧事件→オウム真理教事件
関東大震災→阪神淡路大震災
世界恐慌→世界恐慌

もちろん五一五とかニニ六なんかはないけど…つまんない?

もちろん戦前は世界恐慌の次に第二次世界大戦となります。

2009年1月27日 (火)

空海

空海熱が再燃した。とりあえず諸家の空海観をまとめておきたい。

2009年1月25日 (日)

耳をすませば

『耳をすませば』の原作を読んだら、映画とは主題が変わってることに驚いた。
宮崎駿がだいぶ膨らませたらしい。けれど、原作自体が“いわゆる少女まんが”とはズレたまんがだから、読みやすかった。
監督の近藤喜文は亡くなっていたみたい。若かったのに。


なんか原作者の柊あおいの世界観は、高楼方子って童話書きに似てる。僕も小学校の頃は雫みたいに高楼さんはじめ童話やファンタジーを読み耽ったものだが、中学になって何を間違えたか、やれ村上龍だとか太宰治だとか(太宰は耳をすませば的要素あるけど)読み始めちゃったんだよなー。

安心な僕らは旅に出ようぜ

ともだちから、良い刺激を受ける。それは久しぶりに味わう快感で、大学という場が僕にくれたこと。
僕みたいに甘えきった貧弱な人間に対して、蹴飛ばすような爽快感を持った友達が、わずかだが、いる。ぼけぼけしてたら置いてきぼりに遭うような…わかる?


T・S・エリオットみたいに魅惑的な言葉を操って、街を駆けてみたい。その街って何処のこと?名古屋?広島?東京?京都?


人生の手綱を見事に操作して、僕の前に現れる人たち。僕の前から去る人たち。こんなんじゃ駄目だろう、僕は風景なんかじゃないから、動かなきゃ。


難しい問題。ここにあるギターを弾くべきか、たまりにたまった本の山を片っ端から読み倒すべきか。


大学に入って、だいたい勉強して、だいたいサークルで遊んで、だいたいエロいことして…というのにそろそろノー!ってシャウトすべきだぞ、俺!今や自分の腐り果てた精根を立て直す良い機会だ、ひたすらストイックに、脇目もふらず、とりあえずあらゆる下らない授業とか人付き合いとか遊びとかにグッバイして、猛烈なまでに本の山にわけいったり自分のための勉強をすべきじゃないのか?引きこもり?知ったことか。うしろ指?好きなだけ指せばいい。とりあえず現状を脱出するために、一年後のチャンスを掴むために、全力を懸けるべきなんじゃないか?帰還出来るかどうかは、自分次第だ!

2009年1月23日 (金)

こち亀の話

『こち亀千両箱』という選集をブックオフで買った。感動モノばかりの両さん少年時代の話ばかりが入っている。

読んでいて感じたのは、話の構造自体はどれも似たり寄ったりだけど、そこに作者の東京への思い入れが入ることによって、こんなにも胸を打つんだ、ということ。

「友情の翼!」で、両さんが「東北からの列車は上野が終着駅だからな」「夢を抱いて東京に来る人もいれば夢叶わず東京を去る人もいる。上野駅にはいろんな人生の物語がある」とセンチメンタルな言葉を吐くとき、僕は作者の東京への愛が見事に表現されている、と思った。

今回読み直して驚いたのは「おばけ煙突が消えた日」で、珍しくナレーションが入っているのだが、その一人称が「ぼく」であり、文脈からそれが両津勘吉その人とわかる。「ぼく」と称さなければ壊れてしまいそうな儚い思い出、昭和という時代、そうしたものをここから感じとれる。そうして“おばけ煙突”も解体していったのだ。

両津勘吉という日本人のある種の理想形態は、「坊っちゃん」や「寅さん」の血族といっていいような、江戸っ子の系譜上にある。その祖先には「弥次喜多」だったり「勝小吉」がいたり、僕らが思い浮かぶような江戸のヒーロー像がある。

浅草という土地自体、江戸文化が最後まで保存された場所だった。永井荷風が愛したのもそれだ。けれども関東大震災で浅草十二階が倒れた時、浅草に残った江戸文化も消滅した。

東京は次に東京大空襲においても壊滅し、二回のカタストロフィを経験したことになる。だから東京で江戸の残りかすを見つけることは難しいだろう。しかしそれでもなお、僕らの中に江戸っ子像が残っていることが、読み終えて感じたことだ。

2009年1月22日 (木)

方法の冒険

僕が文学の領域で試みたいことは、大塚英志の方法のように民俗学から文学を撃ち、上野千鶴子の方法のように社会学から文学を撃つ、というように文学を文学以外の領域から攻めてみる、ということだ。
越境行為によってしか得られない地平に、興味がある。

マンガの作画

一般的に、大友克洋以降は作画が細かくリアルになって、写真に近いものが良いとされる風潮となったという。

確かに大友を手塚治虫と比較すれば、その新しさは明瞭。けれど手塚が自虐的に作画=記号に過ぎないと語ったように、記号的=言葉的に簡略化されたものがマンガの絵であったことに対して、大友の場合はリアルの写生であってそもそも方法論が違ってきている。物語性が希薄になったともいえる。

前に書いた浅野にいおの絵は完全に大友の延長で、非常に細かい。カラーは当然のようにコンピュータで塗られている。これはこれで手書きの暖かみより機械の冷たさを全面に出し、現代を表すことに一役買っている気がする。

2009年1月21日 (水)

ぼくと時代とマンガと文学

ぼくは、世界史的な意味で「現代」を定義するならば、60年代をその初めに位置するべきものだと思う。なぜならあの十年間こそが一大分水嶺であり、月並みな言葉でいえば高度資本主義社会を完成させたからだ。

ぼくは大塚英志のマンガが好きで、それから彼の批評も読むようになった。彼の柳田民俗学に対する評論などはとても面白かった。
彼は『「彼女たち」の連合赤軍』で60〜70年代の全共闘世代=少女まんが台頭期を、『おたくの精神史』で80年代のニューアカ/新人類/おたくを、『サブカルチャー文学論』で80〜90年代の文学を描く。極めつけは『更新の文学』で、00年代にもメスを入れているらしい(まだ読んでない)。
ぼくは基本的に彼の批評を信頼している。マンガ好きはすべからく大塚英志を読むべきだと思う。

にしても、00年代という言葉。これには驚いた。自分が生きている時代が歴史的に規定されるのは初めてだからだ。
正確に言えばぼくは90年代には存在していたが、ぼく(ら)の時代、というやつは、ぼくがプレステ2に熱中している間にニューヨークで飛行機がビルに突っ込んだその瞬間から、始まる。

思えばぼくは「現在」というやつにあまりにも鈍感だったのかもしれない。それはコールドプレイを聴かなかったというためだけではなく、リアルタイムな世界にあまり興味を抱けなかったからだろう。ずっとずっと過去に興味があった、小さな歴史家だ。

今日たまたま書店で浅野にいおの短編集が売っていて(関係ないが浅野の男性キャラクターはくるり岸田を連想する)、ゼロ年代を代表する漫画家とか書いてあったものだから、買って、読んだ。そして理解できて、感動した。俺にも現在の感性はある、と確信できた。
浅野の作品には終始喪失感がある。これはぼくらにとっては当たり前の真実で、馬鹿な先行世代がバブル後の世界を生み出したことや、新自由主義経済で気づけば格差社会になっていたことや、飛行機がビルに突っ込んだことや、ニュースの大半が暗いことや、まあ要するに、それまで信じてこれた何かが失われた、価値なき世界、信仰なき世界にぼくらはいる、ということだ。
だからそれに耐えきれなくなってオウムに回収されたりボランティアに回収されたり、「国家」に回収されてネトウヨになったりする。みんな信じるべき価値あるものが欲しいのだ。
浅野にいおが描くのは、そんなぼくらの時代のためのマンガである。

2009年1月16日 (金)

関心整理

まず、現時点での関心分野を。

Ⅰ.「アメリカ」にまつわる多くのこと。アメリカ文学/英語―アメリカ文化、ロック音楽、映画、カウンターカルチャーetc...
Ⅱ.編集と情報にまつわる多くのこと。記号論、言語学、コンピュータ言語なども含む、デジタル―アナログ両者への視線。
Ⅲ.文学/歴史学/社会学/哲学/経済学などの人文科学の主たる分野。
Ⅳ.サブカルチャー…マンガ、アニメ、映画、小説、演劇への視線。
Ⅴ.日本美術。特に俳句と禅カルチャーを中心に。

2009年1月15日 (木)

おはようこんにちは

こっそり再開しますよ。ロバート・ジョンソンのセカンド聴いててゴキゲンだしね。

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